メタフィクションについて
広義のメタフィクションについて、つまり、メタ要素を作品に取り入れる長所と短所について考えてみたんだけれど、結局のところ、それはメタなレイヤー、つまり、作品外の要素を取り入れられる、というところに収束すると思った。
つまり、どういうことかというと、作品というのは、制限がある、象徴化されている、単純化されている、ということなのだ。現実というのは、無限に影響が連なっていて、過剰に複雑だ。遠方の蝶の羽ばたきが竜巻を生むような複雑系で、人類が扱える範疇を超えた複雑さがある。でも、人間はそれを部分的にでも、解析することで、生きながらえ、発展した種族だ。だから、物語の力を借りる。稲妻という複雑な現象を、雷の神の怒り、という単純な現象に落とし込んだように、現代でも、物語は単純だ。
現実の人間のように複雑な信条を持ち、あらゆる面で一貫性のない行動をするようなキャラクターを人々は望んでいない。現実の因果関係のように、意味不明に無作為に起こるちょっとしたことが過剰なまでに影響力を与えるようなストーリーを人々は望んでいない。人一人の力があまりにも少なすぎて、社会に何の影響も与えず、それ自体が特別なことではないと自覚するシナリオを人々は望んでいない。
それが達成できるのは、物語が『制限』されているからだ。
しかし、同時に、それは限界を生む。
銃が居間に置かれているなら、それは発射されなければならない。意味深な台詞には何らかの裏がある。一見無意味にみえる行動にも、伏線が張り巡らされている。作中に登場する要素を勘案すれば、部隊が全滅するのなら、それは全滅してしまう。ヒーローは一度死んでから復活し、世界を救う。物語は物語であることを止められず、限界を知る。そして、紋切り型になり、人々は見飽きてしまう。
人々は我儘で、期待を裏切って欲しくないが、期待を上回って欲しい。
そこで必要になるのが、メタ構造だ。作品の外を、作品の中に用意することで、その作品の中を拡張することができる。
たとえば、ノベルゲームの場合、生まれる選択肢は限られている。3つしか選択肢がないのならば、それぞれを調べれば終わりだ。いずれ答えができる。でも、メタ要素があって、コンフィグ画面の設定が、物語にも影響を与えるとしたら? 正解は単純な選択肢に留まらなくなる。
これが、メタの力だ。
そして、同時にメタは物語を破壊する。何か都合の悪いことが起きれば、作者が作中に表れて、すべてを書き換えるような物語のどこに真剣みがあるというのか。現実世界と地続きになり、無限に拡張していく物語は、現実と差がなくなってしまう。そして、物語である意味が失われる。
つまり、最大のリターンは、創作物が持っている制限を解除できる、ということであり、最大のリスクは、創作物が持っている制限を破壊してしまう、ということなのだ。これは言うまでもなく、表裏一体だ。
だから、メタ要素があっても、優れた作品、評価されている作品は、メタ要素にも制限を設ける。メタのレイヤーすらも、もう一つ外の作品の枠に埋め込む。
たとえば、「LEGOムービー」が、LEGOとは別の世界、現実の世界を取り扱っているとしても、そこには親子の物語があるように、たとえば、デッドプールがこちらを認識していたとしても、それは気が狂った戯言でしかなく、作中世界を変容しうるものではないように。
この塩梅を間違え、メタ要素は、『制限された物語』を超えるための新たな制限である、ということを忘れた作品から、人々に批判される出来になってしまう。