静止は死の友

 何か時間を無駄にしている人をみるのが苦手であって、自分自身もあまりボーとしたりはせず、大抵、何かしらはしている。しかし、それは意識がないための行動ではなく、単純に何もしないでいることが退屈ということもあるし、退屈以前に、なにか根幹的な忌避感がある、というのを薄々感じていた。

 その正体は、静止の状態が死に似すぎている、ということであり、死への恐怖、死に対する抗議として、動き続けているのだな、と思った。

 静止しているままであるのならば、寝ているままでよいのであれば、それは今すぐに死ぬのと変わらなくなってしまう。

 しかし、自分自身は、人間が必ず死ぬことに逆らうような気持ちがあり、その表明として、動いている、生きているのだと思った。

 というか、僕自身が、個人では逆らえない大きなもの(巨大な組織とか、習慣とか)を根幹的に嫌っていて、混沌主義的なところがあるのは、ここに由来するような気がしてきた。根底には、死への抵抗があるのだ。

 そう考えると、僕はこれ一本で、生きていると言っても過言ではないかもしれないな。死ぬのに納得がいっていないので、それに怒りながら生きています、というような。