アトランダムな死

 遊園地で人が死ぬ夢を見た。よくわからないアトラクションで、明らかに危険だとわかるものを、なぜか皆平気な顔をして乗っていて、そこでふざけた少年が高所から落ち、死ぬというものだ。僕の中では割と類型的になっている夢の一つで、似たような夢を何度も見た。きっと、僕の中で常々抱いている疑問が形になったものなのだろう。どうして、そんなに死ぬ可能性があるものを見ない振りをして生きていられるのか、という疑念だ。

 例えば、弟が自身の子と遊んでいたのだけれど、僕が見てた短い間にも、運が悪ければ死んでいたと思う瞬間が何度もあった。それは確かに杞憂なんだろう。人はそう簡単に死なない。もし、彼が失敗しても、大抵の場合は甥が泣くだけで済む。別に僕もそんな小さな可能性をわざわざ指摘するほどヒステリックなわけでも心配性なわけでもない。ただ、大人たちが失敗を重ねて、そこに運の悪さが伴ってしまうと、結果として死んだり、強い後遺症が残ったりするという例を、僕は散々見ているし、知っている。人はあっさりと死ぬ。僕にとって甥の死は大した影響を持たないし、それによって人生を歪められることもない。けれど、弟にとって、それは違うだろう。彼は良くも悪くも、子供の存在によって大きく人生を変えられ、その変わった人生の上に今、色んなものを積み重ねている状態だ。だから、その死によって、人生の柱は消える。完全に崩壊することはなくとも、芯を失ったものとなるだろう。

 それが怖くないのだろうか? 僕は怖い。僕には、その人が死ぬことによって、自身の人生が変わってしまうような人はいない。だから、自分自身の死が怖い。おそらく、当たり前の日常に存在する、僅かな死の可能性を必要以上に意識しすぎている。しかし、怖いのだ。本当に怖い。自分が死んでしまえば、それは何もかもの終わりに等しいのだから。それがたとえ、どんなに小さく、どんなにあり得なさそうに見える確率でも、一度成立してしまえば、何の意味もない。現実は物語でないから、意味がなく、連なりがないものでも唐突に発生し、急展開を迎えることがあるのだ。未来は予測不可能だ。予測不可能な死は全てを奪い去ってしまう。

 ああ、そうだ。僕は死の絶対性と、現実の無意味性を恐れている。物語の中にはそれがない。空想にも、夢の中にも。それを好んでいるのは、ただの逃避の一形態なのか、それとも。