物質的な循環は救いになるはずもない

 物質は巡りゆくという。確かに、それは事実だ。しかし、何の慰めにもならない。なのに、なぜかそれを救いに思っている人間がいる。救いに思っている奴がいるなら、そいつのスマホを叩き壊してやればいい。そいつの言う通りなら、何も悲しむことはないはずだ。欠片をかき集めれば、そこに同等な分の物質が、分子があるのだから。

 そうではなく、僕たち人類というのは、この肉体に乗っかっているソフトウェアを指している。だから、物質が残り、姿かたちを変えるという事実は、ただの事実であって、何ら救いにもならない。なのに、どうして、問題をすり替えてしまうのだろう。

 おそらく、残るということに重点を置いていて、この意識というものを軽視しているのだろう。正確に言えば、意識と物質的な肉体との繋がりとでも言おうか。幽霊や魂というものを信じている人にも、それが言える。輪廻転生なんてものが成立するはずもない。物体が違えば、全てが異なる。Aというものと、Bというものに差異があるのに、同一のものと訴えることができるのならば、物質的な距離や現象は何の意味も持たなくなってしまう。数千年前にブッタであったという人がいるならば、僕だって、今別に生きているはずのその人と同一人物であると主張することができてしまう。そもそも、何を持って同一としているのだろうか、彼らは。全く理解ができない。幽霊なんかを信じている人も、地獄や天国を信じている人も同じだ。この考えているデバイス、光や音を感じるセンサー、情報を統合し、意識を生み出すプロセッサーが焼かれた後に何が残るというのか。そして、それが自分であると、何の根拠があって主張できるのだろう。

 あくまで僕たちは、今、君の目の前にあるパソコンやスマホのようなものに過ぎない。いくつかの要素によって構成される現象なのだ。要素がいくつか変われば、それはわずかに変わった現象となる。要素が全て消えれば、現象は消える。簡単なことだ。簡単なことなのに、それは理解が容易なのに、現代科学でははっきりと実験できていることなのに、皆は目をそらす。知ろうともしない。なぜなのだろう。僕は無知が怖い。事実を知らないことが怖い。皆はそうではないのか。