どこが好きなのか

 「やがて君になる」で、ある相手を好きというのは、どういうことを指すかというところまで言及していて、感心した。これは難しい問題だ。

 簡単に言えば、総体、つまり総合点というのが一般的だろう。火傷や整形で顔が変わった。まだ問題ないかもしれない。記憶喪失で人格が変質してしまった。まだ耐えられるかもしれない。認知症で精神的には同一人物と言えなくなった。まだ乗り越えられるかもしれない。死んでしまって、人格の再現が出来なくなった。まだ大丈夫という人だっているだろう。

 少なくとも、僕がある人を好いている時は、人格というか思考回路の再現というか、そういう現象を見ている。だから、例えば寝ていたりすれば、その人はそこにはいなくて、その人を再生できる物質がそこにあるという感覚だ。CDと言えばわかるだろうか。僕が好きなのは曲なので、CDという物理的な媒体ではなく、それだけがあっても意味がないものだが、CDがなくなってしまえば、曲を再生することはできない。そんな感じだ。だから、睡眠時間はその人と共にいる時間に数えないし、普段仕事をしていると、家人ですら、二、三時間しか共にいないのは、本当に社会の重大な不具合の一つだと常々標榜しているのだが、なかなか同意が得られない。社会の人々、奥さんや子供のこと、嫌いすぎでは?

 そう言えば、昔、そういうアドベンチャーゲームを途中まで創っていたことがある。前半で数人からヒロインを選んだ後、後半で時代が大きく進み、分割された状態で選ばれたヒロインが出てくるのだ。クローン、記憶移植、同一の性格、魂など。ヒロインのどの部分が好きだったのかを問うような構成になっていたと思う。今ならわかるが、それを問うことには意味が無くて、どれでも、主人公が選んだヒロインとは別のものなのだな。組み上がった状態を好んでいたとしても、構成要素を好きになることはないし、その中の一番を決めても何の意味もない。

 時間によっても変わってしまうし、左脳と右脳で考えていることは違うし、身体の構成分子は数年で入れ替わってしまうし、その人と呼べるものは厳密には長続きしない。それでも、ある川を定義付けて、それを同じだと思い続けるように、人もまた、人をある程度一体のものと見なす。それはその人の中でだけ成立する定義ではあるが、その定義が崩れない以上、好感度がリセットされることはないんだろうな。