日常を嫌っている

 たとえば、仕事をして、その報酬が全て、創作に消費されるとするならば、僕も納得はするだろう。現に、無償で生きることが出来た学生時代にも、アルバイトをしていたのだから。それは必要経費だ。生存に必要なものだ。作品の先にある、あの煌めきに触れるために我慢を強いられる。それは等価交換として成立していると、僕も納得できる。

 しかし、今や仕事は、僕が忌み嫌っている、何の意味もなく、煌めきも情報量もない空虚な殻を維持するためだけに、ほとんどが使用されている。そんなの、別にどうでもいいことなのに、そこにコストがかかる。そこに納得がない。だから、延々とつらい。

 家が大きかろうが、新しかろうが、飯が美味しかろうが、衣服が綺麗だろうが、何の関係もない。そこには、生きていて良かったと思える煌めきが一切存在しない。あの煌めきは何なのだろうか。「やがて君になる」を読んでいて、感じた、あの素晴らしいものは。一秒でも長くそれに触れていたいと思えるものは。その正体はまだはっきりとした形になっていないが、それは漫画の中に、映画の中に、小説の中に、ゲームの中に、音楽の中に、みることができる。日常生活では、その欠片はどこにも存在しない。だから、生きるに値しない。僕は、その煌めきに、概念に、触れることができる体を維持するためだけに、働いている。そのためだけに生きている。それなのに、煌めきとは関係のないもののために、何かをするということは本末転倒なんだ。

 ああ、僕も概念になってしまいたい。そんなことは物理的に無理なんだけれど。別に僕が言っている煌めきは、イデア界に存在する善のイデアみたいなものでは全然無くて、ただ、僕も属している人類の精神構造として、脳の特別な場所が発火した際に感じるというだけなのだから。ゆえに、僕はこの体を維持していかなければならない。健康的で、正常な判断が出来、感受性を保ち続けた脳を確保していく必要があるから。そこにだけ、あの煌めきが存在する。それにただ、憧れる。そのためだけに生きていたい。