違和感の練習

 ぱっとした時に気付く。どうして、人は拍手するのだろう。賛美という目的で拍手をするのは、日本でも欧米でも今は同じように思えるけれど、ルーツは一つなのか、世界同時多発的に生まれたものなのか、と。

 実際、これは欧米生まれのもので、日本では明治以降に浸透したものらしい。古来はむしろ、劇中に音を出すという行為自体が憚られるものであったことがわかっているとのこと。こういうことを、考えられるようになりたいと常々思っている。

 人間は、元からあったものにあまり疑問を持たない。途中から持ってこられたものは、その必要性があるのかとか、自分に合っているのかとか、よく考える癖に、最初から持たされたものはそのままにしていることが多いのだ。だから、それを疑いたいと常々思っていて、違和感に気付き、その由来を調べるということを慣習化している。だって、人が元々持っているものは、DNAに刻まれたもの以外、幼少期にすり込まれたものなのだから。それが現在もあっているのか、自分に必要なものなのか、そんなことは考えられもせずに。それを、僕たちは時々、自分が持っている視点を棚卸ししてあげなければならない。そうしなければ、体が重いままに、その必要もないのに、鎖に囚われてしまうことがあるから。逆に言えば、途中で持ち込まれたものに、バイアスをかけてみるのも止めるべきだ。嫌いだと思っても、どうして嫌いなのか、どの要素が自分に合っていないのか、それを考える。その結果、離れている方がいいのか、もう一度挑戦してみた方がいいのか、明らかになるはずだから。人間は考える葦である。ただの葦になるつもりは、僕はまだない。