自動的なんだよ

 そもそも自由意志とは、選択とは何を指すのだろうか。

 

 有名な実験がある。腕を動かす時の脳や神経の電位を調べた結果、以下のようなことが、この時系列で発生していることがわかったのだ。

 1.腕を動かすという命令が走る。

 2.腕を動かそうと認識する。

 3.腕が動く。

 つまり、命令が先で、認識が後だったのだ。この研究は衝撃を持って迎えられたが、この研究者自身が自由意志を尊重する立場にあったこともあり、このような解釈を持って迎えられた。確かに事実は上記のようになっているが、2と3の間にはラグがある。そこで、腕を動かさないように決めることが出来るため、自由意志は存在する、と。

 しかし、待って欲しい。なら、腕を止めようとする命令もまた、上記のような発生手順をたどるのではないか。だとすれば、止めようとする命令も、意識よりも先に走ってしまい、そこに意志はないことになる。更に言えば、これもまた有名な話だが、電気信号を送り、無理矢理腕を動かした時でさえ、本人に訊けば、自分の意志で動かしたのだと主張するのだ。それと同じことが、常に起こっていると考える方が自然だ。

 

 そもそも、何を選択と呼んでいるのであろう。一番スマートに考えられるのは、ゲームで選択肢を選ぶようなところだろう。でも、それはゲームの外側があるから成立するのであって。ゲームの中だけで『選択』が完結しているのなら、それはゲーム内部のデータや乱数に依存する処理となっているはずだ。それを『選択』と呼べるのだろうか。一般の人がよくイメージしているように、自分という魂、脳、精神、といった何かが肉体を操作しているというものだと思っているのか。なら、その本体の選択する意志というのはどう発生しているのだろうか。あくまで、我々の肉体もシナプスやタンパク質の集合体である。外からの乱数や環境変数、量子的なアトランダムさというのは、確かに存在するが、『選択』、『自由意志』というものは無いと考えるのが自然だ。

 そう、ないんだよ。僕たちの脳にある回路や乱数、環境的な変数によって、複雑系が組まれていて、予測可能だとか、予定説だとか言うことは出来ない。試行によって、外部の状況によって、僕たちの意志は何度となく変化し、常に一定であることはないだろう。しかし、それは毎回、セットアップのデータが違い、ダイス目が異なるということだけを指している。なにか、僕や君がなんらかの『選択』をしたわけではない。ただ、『選択』をした気になっているだけだ。これは進化的に優位な性質だったから、残っているだけだ。あるいは、僕が考えているように、局所的な情報の統一によって、意識と呼ばれるものは必然的に発生するものであって、本来生存に必要なのは情報の統合であって、意識というものは副産物でしかないのかもしれない。生物の機能には、そんなものが山のように存在する。

 

 一応、そうでない解釈をすることができる。この脳が、なにか我々が未だに認知することが出来ていない高次元とかあるいはもっと別の概念によるエネルギーやその他のものを受容するための器官であるという説だ。つまり、ラジオのようなものと考えるのだ。どんなにラジオ自体を解析していも、流れてくる流行りの音楽のことはわからないだろう。それと同じだ。僕たちの意識というようなものが別のところにあって、僕たちの体はそれを受容しているだけだ。チンパンジーや蜥蜴といった生物たちも、それを部分的に受け取れているが、僕たち人類が最もそれに適した形に進化したと考える。なぜなら、そうすると生存に有利だからだ。確かに、SF小説なら、その設定もいいだろう。現実と矛盾しないからだ。しかし、事実と矛盾しないことと、最も事実らしいということは異なる。例えば、今、僕が打っているキーボードは、人類が理解していない何らかの高次元的作用を働かせて、このブログに文字を打っている、と考えることもできる。それでも、現在、キーボードを打つと文字が表示されている事実とは矛盾しない。しかし、最も事実に近いと考えられるのは、PCの規格に則り、電子回路が動いたという事象だ。僕はダブルスタンダードを出来るだけ排除したいと思っている。自分が気に入っている監督の作品には論理を歪めてまで贔屓するような醜い存在になりたくないからだ。だから、僕はこのキーボードが動いているのは、神通力ではなく、電子工学によるものだと考える。だから、僕という事象も、脳科学によって解明されている現象によって形付けられていると考える。

 

 つまりね、僕が最も重視している価値観である、自己選択というものは、存在しないのだ。ただ、僕は僕という事象が多変数と乱数によって組み上がる数式によって従って動いているのを観ているだけ……いや、それならまだマシで、そうやって考えたり、感じたりしていることですら、物理法則に従った結果でしかない。完全なる虚無というわけだ。

 わかったでしょう。僕が、どうせ死ぬのだというと、皆は死んでしまうが、だからこそ、人生を楽しむべきだと言う。だから、僕は言ってしまうよ。この人生は自動的だと。僕が虚しさを感じて苦しむのも、君が気楽に人生を送っているのも、あらゆる変数と乱数による結果であって、僕や君の選択の結果という構造ではないのだと。

 僕は別にこれを逃げ道にするつもりはない。自動的であるからと言って、現在の司法における責任を持たない、なんていうつもりはない。意味ないことしているなぁとは思うけれど、それを言ったら、世の中は意味のないことばかりなので。ただ、僕が訊きたいのは、一つだ。君たちは本当にわかっているのか? 本当に実感しているのか? 我々はいずれ、必ず死に、宇宙は凍え、この意志はまやかしで、何も選択など出来ず、自動的な結果を眺めているだけだと。本当にそれを感じつつ、皆がこの一般社会で生きているのだとしたら、僕は皆のことを超人と呼ぶほか無い。