何者でもない自分

 最近、妻が自分には何もないみたいなことを言いだした。確かにそうだし、気持ちはわかるんだけれど、でも、それはどうしようもなくないか、とも思う。

 そもそも、何か持っているってなんのことだかわからないし、そういう人だって、何か悩みを抱えているものだし、上を見ればきりがないが、下を見てもきりがないわけだし、そうやって何かを持っていた自分というものを考えると、それは自分でない何かになっているだろうし。要は、そんなことは考えても無駄だと思っている自分がいる。

 何かになれないという話でも同じように思う。自分は自分だし、その何者にもなれなかったから、何者でもない自分がいるわけで、それを否定してもしょうがなくないか、と。別に自分の意志だけが全てではなくて、環境や遺伝の違いがあるのだから。

 思うに、これは日本的常識の弊害なのだ。欧米のように、自分を主張する、自分を確立するということを学ばず、夢を追ったり、一つのことを極めるのが美徳とされ、精神論で全てが片付くと思っている人々の妄想の塊だ。そんなこと、悩んでも仕方ないし、意味がない。自分という現象は自分でしかなく、他に代替できないのだから。

 まあ、これを言ってしまうと、僕も死ぬのは仕方ないので悩んでいるのは意味がわからないと返されてしまうのだろうな。そうやって、悩んでしまうのも、同じように遺伝と環境による結果なのだから、ただ受け入れることだけしか、僕たちにはできないのだろうが。