取り越し苦労

 昔から、あり得ないほど低い確率を意識してしまう傾向にある。

 たとえば、交通事故や飛行機事故。これだけ車で運転していても、どこかへ行く時や帰りに誰かを轢いてしまったり、トラックに突っ込まれたりすると思っているところがあるし、飛行機が離陸や着陸するたびに体を固くしてしまう自分がいる。逆に言えば、宝くじも当たる気しかしないし、はずれるつもりがなかったりする。論理的に考えて、そんなことはないとわかっているのに。

 きっと、人生は一度きりだと強く意識しているせいなのだろう。確率自体が極端に小さくても、それが一度起こってしまえば、この人生、この人格は大きくゆがめられてしまう。その脅威を常々考えているから、それが起こることの重大さに意識がいってしまうから、そのごく少数の確率を、無視できないものだと思ってしまうのだ。

 しかし、これはまさに杞憂というものだ。天が落ちるのを意識して、眠れなくなった人のように、僕も死んでしまうことを意識して、社会で生きていくことができない。それは馬鹿らしいこととして、国や時代を超えて語り継がれるほど、意味のないことなのだろう。