楽観と悲観

 楽観的だと言われることが多くなった。元々、自身を悲観主義者だと思っていたので、それは意外だったのだが、確かに比較してみると、楽観主義と言われても仕方ない考え方をしているな、と思った。どうしてかと考えたのだけれど、やはり、根幹的に死に対する比重が大きすぎて、他のことをどうでもいいと思っている節があるためのようだ。

 死ななければどうでもいい、なんて書くと、意識高い系のビジネス書とかに書いてあるそれなのだが、実体としては、どうせ人間は死ぬので何でもどうでもいい、なんので、死ぬほど意識が低いし、やる気がない。

 しかし、その割には時間に関する感覚がシビアなんだよな。休むなら休む、何かをするなら何かをする、と時間を決めてやらないと気が済まず、ダラダラとしている時間が嫌いなのだ。これも、死のカウントダウンが進んでいるのに、意識のないことに時間が消費されてしまうのが嫌だからであり、気力がないなら、一日中、寝ると選択することは良いのだが、何かをしようと思っているのに、グダグダして一日経ってしまった、というのは好きではないのだ。何もしないのなら、何も選択しないのなら、それは寝ているのと変わらず、ずっと寝ていいのであれば、それは死んでもいいということになるので、死んでしまう。なので、起きている。不眠気味なのは、この考えにも起因しているのだろう。睡眠は死の息子だ。

 根幹的に失望しているからこそ、表面的に楽観的でいられるのだろう。それはそれで良いことなのだろうが。

 この恐怖が僕の世界の全てを支配している。