アナログな世界

 死生観デッキのまとめをみた。ありきたりなX歳までに死ぬみたいな奴は、そういう奴ほどX歳で死なないので、どうぞご勝手に死んでくださいという感じで少し嘆息してしまった。人が勝手な利便性のために定義して、人の指が10本だから生まれた数値の型に基づいて、ある切りのいい数値を死の基準とすること自体が滑稽に思えないのかな。あるXデーを基準として、その前日にはなぜ死なないのか、という問いを繰り返して、そのXデーが今日に来てしまうということを考えないのかな。まあ、それが若さかという気もするが。そんなつまらない意見の中に、一つ気になるものがあった。死ぬというのは、目の前のコップのようになってしまうというから避けたいというような意見だった。

 彼女は死恐怖症の傾向がコメントによればあるらしく――というか、むしろ死を恐怖していない人間が死不感症とでもいうべき病気であるのは間違いなくて、それ自体がおかしくはあるのだけれど――意識の喪失を恐れているのではないかと思った。確かに、僕も大まかに言ってしまえば、それを恐れている。考える力や感じる力がなくなることを恐れている。けれど、言ってしまえば、僕たちはすでにコップと同じなのだ。

 そう、物体でしかない。少し複雑な動きをする物体だ。死というのは、皆が思っている以上にシームレスなもので、生と区別はつきにくい。でも、それでは社会的に困るから、便宜上、死は不可逆なものだとし、いくつかの医学的なサインを持って定義されているのだ。不可逆なものなので、現在、死からよみがえった人間はいない。死から戻ってきた時点で、それは死の定義から外れてしまうので、死んでいたわけではないとなるのだ。同じように、静物と動物の定義も、実は非常に曖昧なものだ。その間には無数の区別がつかないようなものが存在する。死にかけている人間もその一つなのだ。

 だから、僕は死を恐れているのと同じように生も恐れている。しかし、同時に諦めてもいる。老いがシームレスであり、人間が定義した何かしらの傾向や数値に寄らない限り、ある一線というものが引けないように、死と生も同じ延長線上にしかいない。ある一線から恐れるというのは、厳密には定義しきれない。全てに不感になるか、全てに恐怖するか、そのどちらかだけが理論的に正しいように思える。

 何か、この、死というものの実態を理性的に理解することはでき、許容しているのだが、感情的に全力で反発している、という僕の状態があまり共感を呼ぶものではないのではないかと思い始めている。まず、そもそも人は死について自覚をしないものだし、調べもしないものだし、恐れもしないもののようだから。