誰かが犠牲になるくらいなら

 昔から、誰かが強く損をするぐらいなら、みんなが少しずつ損をする方がマシだと思っていた。例えば、電車の席を考える。そこは七人掛けで、しかし、冬着を着込んだ大人たちが七人で座るのはつらい幅だ。ここに七人がいた時、選択は二つあると思う。一つは、六人が座り、一人が立つというもの。一人は辛いが、大多数は得をする。もう一つは、七人が座るもの。みんなが窮屈な思いをするが、とりあえずは座れる。僕は、常に後者を選んでしまう。

 なぜなんだろう。源流はあまりわかっていない。しかし、昔から、こういうシチュエーションの時に、その損をする一人に選ばれてしまった人のことを考えてしまうのだ。だから、みんなが少しずつ、それを補填すべきだし、どうしても駄目なら、自分がその一人になろうと思ってしまう。ゆえに、本当は車とかも存在すべきでないと思っている。毎日のように、誰かの大切な人が、あるいは本人が事故で死んでいると考えると、それほどの価値はないのではないのかと思ってしまうのだ。少なくとも、自家用車とか、安全装備のない車は存在しなくてはいいのではないかと思う。そんな、誰かを殺してまで欲しいという利便性が、この社会に存在するだろうか。

 この思いは、間違っているのかな。どうしても、子供の時から、社会の犠牲者を見ない振りをして、この社会は正常で便利なものだと思い込んでいる人々が、あるいは、そんなシステムが、心底嫌だなという思いが捨てきれない。ただの感傷には違いないのだが。おそらく、僕が死ぬのが嫌で、この人生が本当に一度しかないものだと、ずっと自覚し続けていたからなのだろう。それが他人の居眠り運転が無になってしまうリスクを考えれば、自動車なんてものはなくなってもいい。無限大のマイナスを前に、確率は意味を成さないのだから。でも、そんなことを言ったら、なんにも出来なくなっちゃうんだけれどね。だから、なんにもしたくないのかも。