ただ死ぬだけのことに関して

 僕たちはただ物理法則によって存在しているので、物理法則によって朽ちるだけで、そこに何の意味はない。やはり、そのこと自体を知っている人は割といるし、そうだと心の奥底からわかっている人もいるんだよね。でも、その解釈がちょっと良くないと思うのだ。

 一つは、だからこそ、自分で定義できるっていう人。いや、ないってわかってるじゃんって思ってしまう。これってさ、なんか実験結果が出たとして、因果関係はないですね、この実験に意味ないですねってわかった後に、なら、自分で定義できるって言っちゃっているわけでしょ。おかしいと思わないの? ないってわかったなら、ないんだよ。それでおしまいです。

 一つは、地球とか宇宙とかのシステムに組み込まれているという安心感を得ちゃう人。だから、それは結局、家族とか、会社とか、社会とか、人類とか、そういう大きいものの一部と考えることで、個体としての死から目を背ける論法なんです。そうじゃなくて、問題としているのは、その個々が死んで言ってしまうということで、もっと言えば、より大きいもの、宇宙や地球ですら朽ちていくことが決まっているのだから、より大きいものを求めても仕方がない。どうして、それがわからないのか。

 一つは、ちっぽけな存在だから自由なのだと前向きに考えちゃう人。いや、その通りなんだけれどさ。でも、その自由さというのは、空虚さとセットであって。つまり、もう、これ電池切れるし、そうでなくともセーブできないけど、自由にしていいよってゲームを渡されて、それを楽しめるのかっていう話なんですよ。自由であることと、楽しいこととは繋がりがない。

 やっぱり、みんな、普通に生きていくための論法、その根拠が科学的に正しいものに置き換わっているだけで、結局はなにかを信仰しているんだ。本当の、このどうしようもなく空虚な、何もないところまで来ようとする人はほとんどいない。僕はそれが悲しかったりする。どうして、人はどうしても意味を求めずにはいられないのだろうか。