どうせ死ぬ

 自由選択が出来ないのであれば、意味がない。それは収容されているのと変わらない。しかし、どうすればいいのだろう。働きたくない、なんて。なにもかも自由に生きていたい、なんて。

 例えば、実家に帰ってしまって、自室に引きこもればいいのだろうか。仮にそうしたとすると、でも、そこまでして生きて、やりたいことなんてあるだろうかと思ってしまう。どうせ、死ぬのに。そうだ、どうせ死ぬんだ。皆はどうせ死ぬなんて言っても、なんの進展もないのだから、考えない方がいいと言う。なんだよ、進展って。その金を稼いだり、人と親しくしたり、仕事を我慢したり、そんなことが些事になることがあるのに、それを見るのがおかしいというのだよ。なんだよ、それ。おかしいじゃないか。たとえば、僕たちの乗っている飛行機が故障して、確実に死ぬってことがわかった後に、どうせ死ぬのはわかりきっているから、そんなことは無視して、仕事をし続けたり、食事を楽しんだり、映画を観たり、明日の予定を考えたりする人がいるのか? いないじゃん。死ぬの怖いなって思うだろうし、遺書を書き始めたりするでしょう。死を直視しないのが得だ、なんて言わない。ダブルスタンダードなんだよ。その緊迫さは全く変わっていないんだ。確実に死ぬんだから、そこまでにどれだけの時間があるなんて、意味がない。セーブ機能がなくて、クリアもできないゲームをやる気になれます? 大丈夫。きっと、電池は数十年持ちますから! なんて言われても、困るでしょう。どうせ消えてしまうのに、やる気になんてなれない。それを言っている。仕様の致命的な不具合について話している。それなのに、皆はそれはもうそうなっているんだから、言っても仕方なくて、ただ楽しむべきだと言うんだ。だから、その不具合がある以上、楽しめるわけない! って叫んでいるのに! もう気が狂ってしまいそうだ。それなのに、老後がどうだとか、車がどうだとか、子供がどうだとか、仕事がどうだとか、そんなことばかり話すんだ。死より、大事なことなのか? すでに気が狂ってるんだよ、皆。なんで、こんな狂った社会で生きていく必要があるんだ。もう、無理だよ。死ぬことを考えずに、怒らずにいられる人間が、政治とか経済とか外交とか、そんな些事に文句を言っていて、なんてくだらないんだ。なんで、わからないんだ。

 もう疲れた、この無意味さに。