社会人の才能

 最近、ゲームデザイナーのインタビューをよく読んでいる。いや、最近というか、人生における習慣のようなものであるのだが、特に、よく読むという感じだ。そして、何回目かの、ほぼ日の岩田元社長のインタビューを読んだ。その時に、以前よりもしっくりくる言葉があった。それは、才能と報酬に関する言葉だ。

 彼曰く、才能、あるいは向き不向きというのは、報酬を見つける力のことを言うのだという。普通の人ならば、苦しむことを苦しまずに、むしろ、楽しんで続けられる人には勝てないというのだ。その報酬を見つける力こそ、才能だと。ああ、これは僕がこの間思ったことだと思った。そして、僕がずっと疑問に思っていた、この無味乾燥で、退屈で、コピーのコピーのコピーで、どうせ死んでしまう世界で皆が平然と社会に尽くしている理由だと思う。彼らは、褒美を見つけるのだ。それは金銭だったり、地位だったり、家族だったり、同僚だったりするのだろう。ああ、本当に才能だ、それは。普通に生きていて、そうやって、激務の末に迎えた日曜日に、暖かい日差しを浴びて、子供の遊ぶ声を聴いて、こたつの中で寝られるという才能なんだ。僕にはできない。僕は駄目だ。それでは、僕は虚しくなってしまう。結局、これは何なんだと考えてしまう。こんな何もない休日のために、平日を捧げているのかと思ってしまう。何かの前進がなければ、僕が価値を置く何かが毎日発生しなければ、その一日はなかったことになってしまう。僕が死ぬまでに過ごす、限られた一日だというのに。家族に看取られて死ぬのが幸せだと感じられる人間のために、この社会は設定されている。そういう、一部の才能ある人間のために組み込まれている。だから、僕たちはそこから外れることを覚悟しなければ。社会から自動的に与えられ、飢えずに済むような居場所はない。勝ち取るしかないのだ。あるいは、自分のその炎を消して、ゾンビになるのか。ああ、僕はいずれ、それを選んでしまうのだろうか。どちらかというと、僕は野垂れ死ぬよりも、そちらの方が怖い。僕でなくなってしまう瞬間が怖い。