共感性の欠如の欠如

 いっそのこと、サイコパスならよかったと思うことがある。

 一般社会はあくまで個々のプレイヤーが共存しているだけなので、たびたびそれぞれの利害が相反することがある。相手の好意を袖にしたり、善意を断ったりする必要が生まれることがあるのだ。生死にかかわる問題ならばよかった。社会における戦争ならばよかった。僕だって覚悟を決めて、相手を殺すことができるだろう。しかし、日常における対立、衝突はそんな強いものではない。ちょっとしたことのぶつかり合いだ。例えば、僕はあまり働きたくなくて、会社はもっと働いて欲しいという程度の。希望と希望の衝突とでも言うような。僕は比較的、そういう時に要望を通してしまう人間であることは自覚している。他者への影響よりも、自分の方が大事だから。それでも、人の好意を踏みにじるのは苦しい。善意から用意されたものを断るのは悲しい。一方的に権利を主張するのは虚しい。それでも、やらなくてはいけないのだ。

 社会や会社、組織といった実態を、感情を持たないものに対して、僕はかなり強気でいられる。そういうものは本質的に虚構だし、ルールそのものだから、ルールで戦って勝てればそれでいい。僕が歯向かおうが、システムは傷つかないから。でも、人が相手になると、容易にそれができない。僕が傷つけるのは、相手の人間であり、相手の人間が傷ついて、傷つくのは僕自身だからだ。

 いっそのこと、冷徹な功利主義者ならよかった。相手が苦しんでいても、自分が得をしている限り、なんとも思わないような。残念ながら、僕はただの普通の人間だから、相手が苦しんでいたら自分も苦しいし、相手が喜んでいたら僕も嬉しい。人並みの共感能力を備えてしまっている。しかし、社会に組み込まれて、スムーズに回れる歯車ではない。反発し、飛び出て、周囲を傷つけた挙句に零れ落ちるような、不良品なんだ。

 だから、なんだかんだで踏み出せない。僕にある程度の信頼を置いている人を踏みにじることはできない。ああ、そんな中途半端さが、このどうしようもない人生を形作っていると知っているのにな。もっと、論理的にいられる薬でも処方してもらいたい。