この世界は素晴らしく、戦う価値がある。後者には賛成だ。

 続きで考えてみたのだけれど、やはり、表層的には2点が社会で生きていくにあたる僕の問題点となっている。

 1つは、一般的な仕事に苦痛を感じすぎていること。それも、一般的な理由ではなくて、僕自身の価値観によるものが大きいこと。だから、客観的に楽だとかは関係なくて、ただ僕が退屈か虚無感かを抱かないようにするのが大切で後は生きてさえいれればいいなんてことになってしまう。

 もう1つは、報酬と感じられることが少なすぎること。家に帰ってゲームさえできればよいとか、仕事で褒められればよいとか、金銭に満ちていればよいとか、そういう社会が提供しやすいもので、報酬を感じられるようになるか、あるいは、単純にうれしいことを増やしていかないと、1つの報酬の有無に対する圧力が強くなりすぎ、それがない時に強い絶望感を味わうことになってしまう。

 思うに、両者の根幹は一致していて、つまり、死が……ってそれはもういいや。そのことで妻と相談していたのだけれど、彼女が直接的でないにせよ言ったこととして、僕や彼女のような社会不適合者は、本来、社会に不要なものだが、発生した以上、どうにかしなければならないお邪魔ものみたいな存在であって、社会に救いを求めてはいけないみたいなことを言っていた。確かにその通りだ。僕はまだ、なんとなく、社会の端っこでどうにか理屈がつかないか、みたいなことを模索していた節があるなと思わされた。そうではなくて、僕たちは癌細胞みたいな存在だ。ただ、邪魔なだけで、利害が衝突しあう存在だ。だからこそ、僕たちだけでも、僕たちだけのために戦わなければならない。そういうものとして、そういう現象として、発生してしまった以上、個人の利益を追求するために社会と戦っていかねば。そう強く思わされ、決心を固くした。社会にとっては厄介なことに。