原始の恐怖

 なぜ、人が嫌いなのかと考えた。

 

 調べてみると、人が怖いという人が多かった。幼い頃にいじめられたり、罵られたり、といったことがあったせいだというのだ。僕はそうではない。いじめられていたのかもしれないが、少なくとも本人は気付いていなかったし、危害を加えられれば敵対する覚悟さえあれ、まともな人とそんな状況になったこともない。

 人が醜いという人もいた。彼らが言うには、人は身勝手であって、人を騙したり、貶したりするのだという。僕もそうであると思うし、幼少期にはそれで失望していた気もするが、現在はそんなことはない。むしろ、どうして、善良であると仮定しているのだろうか。別に、性悪説だと思っているわけではない。むしろ、そんな善悪は社会の定義でしかなくて、ただ人々はそうあるべくしてそうあるだけで、なるべくしてなっているだけである。善良な行いも、残酷な行いも、ちゃんと思考に沿って説明できる事象ばかりであり、脳がそうさせているのだ。それを嘆いたり、賛美したり、どうしてできるのだろうか。鉄が酸化していく現象に失望したり、陶器が固く脆いことに感動したりしているようなものだ。そうあるようにある。理由もある。だから、それを拒絶したり許容したりすることはあれ、希望や絶望を抱くのはおかしい。

 自分が嫌いという人も大多数いるようだ。僕も自分自身があまりにも浅ましくてうんざりすることもあるが、基本的には否定的ではない。自分は自分にとってのみ、代替の利かない唯一無二の存在であるため、絶対感というべき感覚が深層にある。思うに、本来ならば皆が承認欲求として求めるべきものを、僕はこの屁理屈によって自給自足してしまっているのかもしれない。

 

 これらではなさそうだ。

 

 趣味嗜好の問題かもしれないとも思った。しかし、自分のコピーみたいな人間がいたとしても、僕はそいつを恐れるだろう。そうだ、僕は他人を恐れている。だが、それは過去によるものではない。トラウマではなく、単純に他人という存在と、自分という存在に横たわる差異を恐れている。それが怖い。なぜならば、他人は僕を殺せる存在だからだ。

 理論的には、それが何のメリットにもならないことを知っている。僕なんかを殺す意味はなく、ただ単に罰せられるので、損な行動だ。普通の人間なら、そんなことはしない。理屈で考えれば。だから、僕は理論的である人間を好む。彼らとは、その損益を担保として、付き合っていくことができる。お互いに利益を得ていくことができる。怖いのは、理性を重んじない人間である。彼らは本当に怖い。彼らは、突然、僕を殺したとしても、何ら不思議はないからだ。理屈で考えれば損にしかならないことを、平然とやってのけるだろう。例えば、野生の肉食獣は、僕を殺したら、人を殺した獣として処分されるという論理を理解せず、僕の肉が欲しいという理由だけで殺してしまうかもしれない。そういう、根幹的な恐怖がある。ああ、そうだ。これだな。だから僕は、他人が理論的に行動している様を見ると安心し、逆だと恐怖する。信仰を忌避するのも、そこに一因があるだろう。

 どうして、盲目的な集団に属することができるのだろうか。自分たちが他者にやる排除の対象に、自分がならないとどうして思えるのだろう。過激な集団が内部分裂で崩壊していく様子は、古今東西よく見られるのに。きっと、そういうところに思い至らないから、自身も盲目になれるのだろうが。