手法を信じるのか、結果を信じるのか

 反ワクチン派の人たちを見かけた。彼女らは、ワクチンよりも母子の愛が病気を退けると信じていて、まあ、馬鹿らしいことなのだが、どうして彼女らはそういうことを信じてしまうのだろうと思った。

 ワクチン忌避というのは、それこそワクチンが開発された瞬間から存在する。その心情を理解することはできる。弱毒化、無毒化しているとは言え、病原を体に入れるわけで、完全に安全というわけでもない。なんでもそうではあるけれど。それに、効果が個人でわかるわけでもないし、厭う気持ちは理解できる。人は目に見えないがゆえにそれを恐れ、というわけだ。

 しかし、母子の愛や絆も目に見えないものだ。なのに、それは何の検証もなしに信頼している。ワクチンは山のようなデータがあり、信頼性を確保しているのに、母の愛はただ直感的な印象だけで信頼性があるということになっている。それに、彼女らはワクチンによる問題が発生したケースは取り上げるが、それによってもたらされる恩恵のデータは持ち出さない。つまり、結果による取捨選択が先行していて、手段に対する信頼というのが存在しない。これはおかしなことだ。まず、その手段が正しいということがわかって、その結果が正しいと繋がるのであって、同じ手法によるものでも、結果Aは信じ、結果Bは信じないというのは、理屈に反する。

 その結果ありきの考えは、僕は信仰に近いもののように思える。まず、Aという宗教、その教主、その教義が正しいという前提が全てに先立っているのが宗教というものだ。そういう、結果優先の思考を感じとる。この場合、他人が彼らを説得することはできない。どんなデータも考えも、結果が先んじているから、それに沿わないものは間違っていたり、捏造だったりするこになってしまう。本人が疑問を持たなければいけない。

 大人が自分自身においてのみ、そう判断したのならいい。自己責任とすることもできなくはないと思う。まあ、ワクチンとかは集団免疫という点もあるから、そうとは言い切れないのが難しいところではあるけれど……でも、まあ、理解できなくもない。しかし、宗教も反ワクチンも、問題となるのは、それが子供に影響を与えるということだ。興味深いことに、こういったタイプの人間ほど、家庭を持ち、子供を産むことが多い。そうなると、子供は正常な判断ができないままに、親の主張を押し付けられ、後の人生に大きな影響を及ぼすことになる。……病死せずに後の人生があるだけ、その子は幸運という話もあるが。

 こういう問題が現実に存在しているのに、なぜ、普通の親や一般社会人はそれを問題視しないのだろう。僕なんかはどうでもいいが、正義感を持っている人たちにとっては、耐えがたい歪んだ状態だと思うのだが。まあ、問題視し始めると、親子というシステムが現代的な視点を持つと根幹的に狂ったシステムであることに直面しなくてはいけないからかもしれないけれど。どうしてか、彼らは自身の立つところが狂っていると認めたがらない習性があるからな。残念ながら、現実は狂っている。理に適わない慣習に従って、グロテスクな光景が今日も繰り広げられる。そこから目をそらしたい人は目をつぶって、盲目のままに生きればいい。僕はごめんだが。……関係のないことにまでわざわざ目を向けて、この世のむごさを確認し続けている方が馬鹿げているのだろうな。