生命という定義のできない事象

 ヴィーガンの主張について、面白いなと思ったことがある。

 彼らはいろんな主張のバリエーションを持っているのだけれど、主要なものに、家畜が可哀そう、というものがある。

 もし、豚肉の細胞培養だけができるのなら、その人たちは文句を言わないのだろう。

 でも、思うのだけれど、それなら、無脳症の豚に電子制御機器をつけて、まるで豚のようにふるまうようになった物体を成長させて食するのは許されるのだろうか。

 もし、許されるのだとしたら、それと今の家畜はどう違うというのだろうか。外見上の判断はできないようにしたとして。

 あるいは、これが99%電子機器で、1%が生体の脳であった場合、どう判断するのだろうか。

 そして、その逆は? 豚の脳の細胞が組み込まれたコンピュータも可哀そう、となるのだろうか。

 感情的な判断は、主観的な基準にしかならないから、客観的な基準を設けなければ、ルールが規定できないというのは理解しているのだろうか。

 いろいろな疑問がよぎる。

 

 そういうことを突き詰めていくと、結局は宗教的な思想なのだと思う。魂というような。けれど、それも魂はどこまで宿るかということになるし、キリスト教のように、人間を特別扱いして、他の家畜はそのしもべとする思想が基盤にある宗教は多いはずなのだけれど、それとはどう整合性を取っているのだろうか。

 疑問は尽きない。

 

 まるで、僕たち人間や動物たちを感情に溢れる、素晴らしい概念のような何かだと思っているのだろう。実情はそうじゃない。タンパク質でできた機械だよ。感情というのは、結果として必要だった振る舞いと反応で、結局はただの脳のシナプスが活性化しているというだけの現象だ。客観的に見ればそういう事象になってしまう。

 感情が意味を成すのは、それが主観だからなのであって、僕たちは他の生命の主観になることはできない。遺伝子配列が全く同じ双子であってでさえ、脳の神経活動が分離してしまえば、その主観を理解することはできない。物理的に断絶しているのだ。

 

 結局は、彼らは無知なのだと思う。そこに関心を持っているのに、それに対しての論文を読まない、研究を追わない、理解を深めない。だから、頓珍漢な答えになってしまう。盲目さこそ、熱心さの根源にあるものだ。