懲役の意味

 今日、ニュースで無期懲役囚の特集をしていた。普段から思っていたのだが、この特集を観ることによって、僕の疑念は明確なものになった。犯罪に対する懲役という罰は論理的に正しいものなのだろうか。

 万人に共通する罰則として、人生の時間を持ち出すのが最も平等に近いという理屈は理解できる。厳密に言えば、もう寿命や病気で死期が近い人間に対しての懲役30年と、まだ成人したばかりの若者のそれとは価値が大きく違う。億万長者のそれと、餓死寸前のホームレスのそれとも違う。しかし、他の刑罰であれば、差異はもっと広くなることは想像にたやすい。それはいい。ただ、僕が思っているのは、刑罰の一側面である、矯正という考えに懲役というのが適しているのかということだ。

 

 僕は、重罪を犯す条件として、二つに大別することができると考えている。一つは物理的条件であり、一つは精神的条件である。

 物理的条件は、その加害者以外のもの、環境ともいえるものだ。例えば、貧困がそうだ。凶器が近くにあったり、盗みやすい家が目の前にあったりといったものだ。これは、基本的には偶発的に組みあがるものであって、そうでないものも、加害者がコントロールできるものはさほど多くない。突発的な犯罪の場合、多くはこの要素が偶然によってもたらされるものだろう。

 精神的条件は、この加害者本人のものだ。「PSYCHO-PASS」の犯罪係数と考えてもいいかもしれない。これもまた、先天性のものと後天性のものに分けられると考えている。前者は、キレやすい、暴力的であるといった性質だ。多くの研究で裏付けられているように、暴力犯は先天的性質が強いことが知られている。後者は、家庭環境だとか、教育の質・量、友人関係によって組みあがる精神を指している。属するコミュニティによって、犯罪者率は大きく変化することから、相当な影響があるということは明白だ。

 

 そこで考えて欲しいのは、懲役という罰則によって、これらは改善されるだろうかという点だ。

 まず、物理的条件を考えれば、ナンセンスな処置だ。より金銭に困り、より自由を失う。環境は悪くなっていく一方だ。そもそも、多くの条件は突発的なもので、その時でなければ起こらなかったということも多いだろう。

 精神的条件もよくなるわけがない。悪い人脈が生まれ、後天的な性質は是正されず、教育も施されない。また、仮に先天的な性質で、治療することもできないのならば、そもそも解決法としては、死を待つしかなく、根幹的な方法は依然として存在しない。

 

 そうだ、意味がない。意味がないんだ。犯罪抑制の意味はあるだろう。被害者の感情を救済する意味もあるかもしれない。しかし、根本的に犯罪をなくそうというためのものではない。むしろ、悪循環を生んでいる。僕が気に食わないのは、このシステムが、感情だけで構築されているように感じるからだ。数多の研究により、多くの心理が明かされたというのに、それを一切顧みない前時代的なシステムが蔓延っているからだ。君たちは、そんなに犯罪を犯さないと思っているのか。自分たちは完全で、自身を制御しきるだけの精神力を、意思を持っているというのか。お笑い種だ。そんな人は、そんなホモ・サピエンスは、そんな脳は存在しない。犯罪にかかわった部位以外の脳を綺麗に交換したら、僕は重罪を犯した人々と同じ行動を取るだろう。皆もそうだ。今の僕はそうではない。冷静に判断できるし、損得を考えたら、強盗や殺人なんて割に合わない。けれど、そんな子供でもわかることはわからないから、罪を犯すのだ。ならば、それを反省して、そこに閉じこもっていろなどということが、本当に意味のあることだと思っているのだろうか。

 

 正直、多くの人間にとってはどうでもいいことだろう。9割9分9厘の人間は、懲役刑をくらわないだろうから。僕だって、きっとそうだ。でも、僕は不満を持っている。どうしてか。僕には、本当に許せないことがあるからだ。それは、本当は意味がないのに、意味があると思っている人がいることが許せないのだ。どうしてかは、わからない。けれど、本当に許せないんだ。意味がないと認めることがスタートなのに、そこに立つこともなく、ただ意味のないことを大事なことだと考えている人が許せない。だから、僕は思う。この懲役というシステムは、正しくないものだと。独房で反省するなどは意味のないことだと。僕たちの人生が意味を持たないのと同じように。