詰みを感じないものがゲームとして成り立つ

 一番、ゲームでプレイヤーに抱いて欲しくない感情は、このゲームに意味があるのか、というものだ。それを感じさせてしまったらお終いだ。だから、あらゆるゲームは丁重に、詰みという状態にならないように、あるいはそれを察知できないようにできている。詰んでしまったのなら、プレイする必要がなくなってしまうからだ。将棋のようなゲームは、詰みであることがわかった時点で、プレイヤーがそのゲームをやめてしまう。それはそうだろう。ならば、この生は?

 詰みというのは、俗にいうような、社会的な状態を指すのではない。単純に、僕という現象が必ず死ぬことを指している。おそらく、人間ではない多くの動物で死は認識されている。それを自身に適応できている動物がいても、決して驚かない。老いや自死のような概念を持っている個体もいるだろう。しかし、本当に絶対に避けられない死、というものは感知できていないのではないかと思う。それは高度な解析機能が必要だからだ。物理的には問題ないはずの人間という種族でさえ、それが理解できない個体もいる。いわんや、他種であれば。しかし、この認知こそが、最大の問題だ。それに対抗できるような機能を、人類は身に着けてこなかった。きっと、いずれは身に着けるものだと思われる。これを正確に把握している個体は、さほど繁殖しないことだろう。生存に不利な性質は、いずれ淘汰されていく。そうなれば、将来的に人類はそれを問題としないのだが、問題は生物学的な進化が間に合わない間に生まれてしまった僕たちである。

 最終的にひっくり返されるとわかっているこのテーブルに、何を並べようというのか。わかっている。だからこそ、好き勝手に並べればいいということは。しかし、どのような並びであれば喜ぶということすら、決められているのに、何を楽しめばいいのだろう。僕は、その面白みを感じるという構造に興味を持って、それに執着して生きている。けれど、そんなものに意味はなくて。何もかもに意味はなくて。それは大した魅力を持っていないから、ふとした時に死が大口を開けて僕の前に表れる。途端に全ての行動力を奪われ、その場で縮こまりながら寝るしかない。なるべく、この恐怖から遠ざかりたいという気持ちしか生まれない。遠くにいる時は、いずれその身に降りかかるそれを直視すべきだと正論を述べているのに、目の前にあると避けることばかりを考える。そういう思考回路になってしまっている。どうしようもない。

 しかし、そんな事実を毎日羅列して、僕は何がしたいのだろうね。何もかもに意味がないと、この虚無感に支配された状態で、何をしようというのか、何がしたいというのか、何をしているというのか、全くわからないままに生きている。どうにか、僕は僕の脳を納得させたのだと思うが、その説得が成功した試しがない。どうすればいいのか。全くわからない。