媒体や表層に執着できない

 たまに、アニメや映画、ゲームと言ったなにか一つのジャンルだけが好きな人がいる。他には目を向けず、ひたすらそれをやっているような。そういう人たちを、僕はオタクとか、マニアとか、○○好きの人と呼びたくなる。だから、自分が少し平均よりも映画を観ているから、読書をしているから、といって、映画・読書好きみたいに言われると、違うなぁと思うことがある。

 僕にとって、それは媒体でしかないからだ。媒体なんてどうでもよくて、例えば、僕は自分の日常が映画になっていても、それを観ようとは思わないだろう。アニメ化してもそうだ。でも、アニメという表現媒体を愛している人は違うはずだ。なにせ、アニメそのものが好きなのだから。僕はアクションとかSFとか、もっと具体的には、MCUとかスター・ウォーズとかが好きなのであって、それが映画であるから映画を観ているだけだ。結果として、それに触れている。あくまでも、自分とその概念を結ぶ媒体でしかなくて、それに向き不向きはあれど、何の意味も持たない。逆に、エロゲとかを忌避している人は、そういう媒体にこだわっている人なのだろう。そんなの、なんの意味もないのに。ただ、重要なのは、中身だ。本質だ。

 日常生活だって同じだろう。どんなに表現が変わっても、表層が変わっても、内容が変わっても、本質が変わらないのなら、意味がない。その本質はただの物理法則の演算結果であって、つまりは虚無だ。どんな譫言で塗り固めて、偽装をしても、その中身に重点を置く以上、何も変わりはしない。