目に見えないもの

 人体に対してわからないことがあるということと、魂や霊体というものを仮定することは、僕にはどうやっても結びつかない。たとえば、鉄鋼という物体があり、その強度は、物理法則から導き出される数値とは桁違いに弱い。その間を埋める理論はあり、ほぼ確定しているが、一応はまだ仮説だ。そもそも、何を持って本当の証明とするつもりなのだろう? 僕が、この証明不可能な差分において、DDDという謎の概念を持ち出して適当に説明するとする。鉄鋼にはDDDがあるため、強度が弱くなっていると。言ってしまうのは自由だ。人間に対して魂を認めてしまうのも、それと同等と考えられる。魂に対しての説明は、そのまま僕が人間にDDDを仮定すると言っていることを置き換えができる。それは信仰だ。ヤハウェの代わりに空飛ぶスパゲッティモンスターを持ち出すことができるように。そして、信仰は根拠がなく、妄言と同じである。なぜなら、代替が可能だからだ。僕はそれに頼ることをよしとしない。手に持ったスマホも、今打ち込んでいるキーボードも科学によって成立しているものだからだ。根拠のある科学と、それがない信仰。どちらが僕に貢献しているのか、どちらを信じれば事実に近しいかは、子供でもわかる。なのに、なぜか皆、霊魂のようなものを自然と信じているんだよな。だから、輪廻転生や天国地獄を仮定し始める。それは信仰と呼ぶことすらはばかられるような、幼稚な思い込みなのだけれど、あまりにも自然だから手に負えない。こんな概念を持ったまま、真面目に生きていくなんて無理だ。ああ、そうだよ。真面目に生きているならば、こんな社会に属することなんてできない。自分のこの、必ず死にゆく身を思えば、社会に属して、他人に利する行動なんて取れるはずがないんだ。もし、それをしてしまっているならば、それは理論や理性が、長い時間社会的な習慣によって生存してきたホモ・サピエンスとしての本能に負けているということで、殺したくなったから人を殺すような、腹が減ったから人のものを喰らってしまうような、そんな原始的な行為に過ぎない。それを僕は嫌悪している。類人猿を思わせるから。僕は社会を嫌悪している。論理的に考えれば成立するはずのない、野蛮な集団を。