極端と極端の間

 あ、ヤバい。普通に忘れてた。年末年始、いつも以上に生活リズムが崩れるので、普通に忘れてしまうな。

 

 よく妻と、色んな話をするのだが、その中に、人生に関わる議題があって、それを論じていた時に思ったことがある。僕は昔、人生で何がしたいのか、みたいなことを自分に問いかける時、かなり極端な仮定を持ち出してきていた。たとえば、それは僕以外の全人類が死んでも、それをしたいのか、みたいな。

 なぜならば、そうしないと純粋なものにならないと思ったからだ。他者からの干渉をなくし、本当に自分が求めていることを炙り出す。そんなつもりの問いだった。そうやって、極限の答えを絞り出していって、それを現実でもやればいいと思っていたのだ。

 でも、現実には、その極端な仮定は意味を持たない。なぜならば、現実はそうでないからだ。

 もちろん、そういう極致における視点も、大事にはなってくるだろう。しかし、現実に求められるのは、現実的な願望だ。

 それを、少し前の僕は軽視していた。形而下における真実のように、洞窟の壁に写った影のように、あまり重要ではなく、不純で、強度のないものであると思っていた。

 今は、少し違う。

 どこまで行っても、僕たちは現実に存在する物理的な存在によって生み出される現象なのだ。体調が悪ければ、それは僕たちの意識に如実な影響を与えるし、脳内物質によって選択を間違える。そういう、形而上の概念とは異なる存在だ。だから、そういう僕たちの望みも、そういった、移ろってしまうような、曖昧で、価値が見出しにくいものでいいのだ。そういう世界に、僕たちは生きているのだから。

 色んなことを許容できるようになってきたのだと思う。それを劣化とは言いたくないけれど、円磨度が高まったということはできるのかもしれない。