前提条件

 色んな本を読んでいると実感するのだが、欧米人はナチュラルに一神教がしみついていて、日本人はナチュラルに天国地獄や輪廻転生があると思い込んでいる節がある。

 まず、欧米人の場合、創造主が前提とならない場合は、それを否定する考えも出ると紹介するところから始めるぐらいだ。これは本来おかしなことで、僕が急にこの世界にフォトンがないと仮定して議論を進めていきますなんて言い始めたら、完全に頭のおかしい人だ。そもそも、フォトンがないのが前提でしょうとなるはずだ。しかし、欧米人のそれではそうではない。だから、無神論者も過激であったりする。本来であれば、現代科学に則れば無神論者であるはずなのだから、自然とふるまえるはずだ。創造主や全知全能の神を持ち出してくることがナンセンスなのだから。けれども、彼らは無辜の民を攻撃するような存在としてさえ、紹介されてしまっている。神などいないと虚無を認める文章にさえ、神を信じていた痕跡が残る。そんなバイアスの元に生まれてしまっているのだから、フラットな思考を得るのは難しいのだろう。

 日本人だって、自然と天国を信じているのだから笑ってしまう。ご冥福を祈ったり、天国で会えたり、生まれ変わったりする。馬鹿馬鹿しい話なのだが、そういう観念が根幹にあるせいで、どこか薄い希望のようなものを、やり直しがきくという感覚を持って生きている人間が多すぎる。

 そう、両者の共通点は、死を本当の終わりだと感じていないことなのだ。しかも、それは無意識に行われることで、なんとなく、自身の今の人生を緩くしている。取り返しのつくものだと思っている。それが可笑しくて仕方がない。だから、思想に歪みが生じている。真実を目の前にしても、それを受け取ることが出来ていないと感じる。だから、彼らの主張はどこか変だ。神や天国を認めるにせよ、認めないにせよ、どうにも偏りの存在を感じる。そうなると、訊く価値がないようにすら思えてしまう。

 どうして、この世界で最も事実らしいと認められていることだけを考慮に入れて試行できないのか。どうして、自身が救われるだなんて、人間が特別だなんて思ってしまうのだろうか。そんなところからスタートしていては、どんなに明晰な頭脳を持っていても、事実にたどり着けないだろうに。いつも悲しい気持ちになる。