普通の人

 何か、性根はまともな社会人にしかなれなかったはずのものが、論理的に道から外れる過程を経て、明らかに変なところに落ち着いてしまったという違和感がある。

 例えば、妻は、もう、もともと普通になれないタイプの人間だった。それなりの高校を出ているにも関わらず、受験もしなければ就職もせず、しかし、それが特に目標があるわけでもなく、卒業後は庭でアリを眺めていたり、地下室を作るために穴を掘り始めたり(!?)していたという時点でどういう人間かわかると思う。そもそも、高校生の時点で、最も学びたい言語をラテン語と言う一方で、地学・生物・化学・物理の全てを学んだ学園唯一の存在であることからしても(我が母校は少し個性的で、大学のように授業をある程度自分で組める)、彼女はユニークな存在だ。というか、自分で書いていてあれだが、こいつ、本当に頭おかしいな。彼女の面白エピソード語ってるのが、一番面白いのでは?

 しかし、僕はそうではない。少し変わったカリキュラムを組もうとしたら仕組みの問題で無理と言われたこともあり、普通の無難な授業を選んだ。無難な高校に進んでいるし、無難な大学に入り、無難な会社に就いた。放っておけば普通の人生を歩むとわかっていたし、それこそ、最高効率で、車と家を持ち、子供が二人いて、犬を飼い、孫に看取られて死ぬ、みたいなルートを突っ走っていた。でも、別にそれは意図してのことではなくて、社会というものが、特に目的無く動けば、そういう軌道になるようにできてているのだ。だから、何となしに、そうなっていた。疑問を持ちさえすれど、他の道を歩むほどの理由もなかったのだ。

 でも、そうではなくなった。物理学、生物学なんかを学んだ結果、そういったことに意味がないとわかってしまった。証明されてしまった。流石に、誤っていると思える道を突き進むほど愚かではない。しかし、他のどれの道が正解なんだろうか。その問いにすら、現代科学は答えを持っている。どれも、正解ではない。どれも、意味がない。等しく無価値になってしまった道を、意思なき者は転がることができなくなってしまった。平坦な荒地に留まったまま、風化していくのをただ待っている。そんな日々を過ごしている。

 きっと、何かがあれば良かった。熱中できるものがあったり、オタクである矜持があったり、怠けることに全力であったり、精神に障害があったり、それでも社会や未来のために尽くすという敬虔さがあったり。僕には何もない。正も負も。ユニークなものはない。凡庸なもので埋め尽くされている。だから、こうなってしまった。お気持ちnoteを読んでも、エッセイを読んでも、どうにも違う、僕の考えとはずれている感じがする。それ自体は他人の脳を覗き込んでいるようで最高に面白いのだけれど、自分がどこに立っているのかのマイルストーンをいい加減見つけたいと思っている。どこかに書いてないかな、と思って、今日も僕は適当な検索ワードを入れて、文章を読み漁る。