哲学は神と共に死んだ。科学の名の元に。

 妻といろいろ議論し、検討した結果、哲学というものに本当に意味はないということが明らかになった。これは、別に世間で言われているような社会に貢献できないような無価値な学問、という意味ではなくて、単純に意味がないということだ。

 

 つまりね、この世界には意味がないんですよ。人間が生きている意味なんてない。人間の存在理由は科学的に証明されてしまっている。この世界に神秘は残されていない。まだ、解明されていないものがあるだけだ。たとえば、あそこで起こった雷が、どうして起こったのか教えてください、と言われて、それは雲というか、氷の粒が振動して静電気を帯びて……としか説明できないと思うのだけれど、哲学というのは、そうじゃなくて、どうして、なぜ、どんな理由があって、どんな意味があって、その雷が発生したのかというのを問うているんです、と答えるような学問なんだ。もう、わかるだろう。そんなの、意味なんてないんですよ。ただ、物理的な世界で、物理的な現象が発生したというだけの話で。それを概念的に捉えたり、象徴的な世界に持ち込んで、ああだこうだと言うことはできるけれど、事実はもう明らかだ。そういう現象が起こるような状態になったから起こった、ということでしかない。

 それは、人間にも、人生にも、宇宙にも、認識にも、生命にも、世界にも、死にも、同じことが言える。本当は物理的にそれが起こっていて、意味なんて存在しないとわかった時点で、すでに哲学は死んでいたんだ。それは神や宗教が死んだのと同じタイミングだろう。哲学と宗教に違いなんてない。ただ、意味のない現象を、無理やり理屈づけるために生まれているものだ。たとえば、雷というのは、神が怒ったから発生しているのだ、という風に。

 ならば、なぜ、哲学というのが、あるいは、宗教というのがしぶとく生き残っているのかというと、人間は無意味であるということが耐えられない生物だからだ。なぜかといえば、人間は、現象の原因を突き止めて、理由をつけるということに特化した生物だからだ。そういう脳の構造を持つように進化し、そのために物理法則を発見することができ、大いに発展することができた。だから、人生や世界が無意味だと判明しているというのに、それに納得することができなくなってしまったんだ。人が物語を求めるのと同じように。

 だから、哲学というのは、もはや、カウンセリングやセラピーに他ならないんだよ。事実が、真実が、物理現象がこうですって言われて、その事実を納得するための理屈付を無理やりすることでしかない。真理や真実を追い求める学問なんて、勘違いも甚だしい。それは自然科学でしかなくて、哲学はただの慰めに過ぎない。文字通りの。それでも、学問を気取っているから、宗教のように現実や論理に反していることは主張できない。だから、どうなるかというと、結局、意味なんてないということを語るか、語りえないということを語るかしかないんだ。現実の、虚無の、無意味のトートロジーでしかない。だって、それ以外のことを主張してしまえば、事実に反してしまうからだ。だから、無意味の言い換えを行うことによって、人間が納得しやすい形に変換する。これが、哲学がやってきたことだ。

 

 ああ、ようやくすっきりした。僕はずっと、哲学に、特に現代的な哲学に疑問を抱いていて、結局、同じことばかり言っているような気がするというか、なんか虚飾的なことをしているという感覚がぬぐえなくて、気持ち悪く思っていたのだけれど、こういうことなんだな。本当は死んでしまったものを、無理やり生かしているような、そんな状態なのだ。どうして生かしているかというと、ただ人間を納得させたいがためのもので、真実を追求するような、そんなものではないのだ。

 だから、哲学にすがりたい人はそれにすがればいい。宗教と同じように。でも、僕は言ってしまうよ、そんなことは無意味だって。この世界は無意味で、僕たちは何の意味もなく、ただ発生し、消えていくんだよって。それを何と呼ぼうが、起こっていることに影響を与えないんだよって。それでも信じたいのなら、信じればいい。できるものなら、ね。