許せないこと

 こんな内容の記事が、記念すべき誕生の日の、しかも、キリの良い時にやるものかとも思うが、何よりも僕の根幹に近いものなので、同時に適しているとも思う。特に調整をしていないにも関わらず、そうなってしまったのが面白い。まあ、10進法なんてものは、手が2つ、指が5本あったから生まれただけで、僕が創造主だったら、間違いなく両の手で8本で8進法にしていたね。そもそも、4本ぐらいは腕が欲しいが。インテリジェントデザインの反駁にしたいぐらいには不満がある。そう、不満がある。不満ばかり言っていて申し訳ないと思うけれど、そもそも、思うところがなければ、多くの場合は黙って頷くだけなので、わざわざ声を上げるということは、それだけ気に食わないということなのだ。

 

 僕は、意味がないのに、意味があると思っている人が、そういうことが、大っ嫌いだ。本当に嫌いだ。きっと、僕にとっての原罪がそれで、前世はそれに殺されている。そんなものがあるとしたならば。生まれてこの方、ずっと嫌いなのだ。

 

 一番は、人生だろう。こんな事象に意味なんてない。意味がないと認めて、その恐怖と立ち向かって、ようやく人生が始まる。始めるというのに、そのスタート地点すら立てない人間があまりにも多すぎる。もう、飽き飽きしてしまった。

 宗教に忌避感を抱くのも、これが原因だろう。意味のない世界に意味を与えようとし、それを他人に押し付けてくる最右翼と言ってもいい。最悪な存在だ。僕は物心ついた時から、それを憎んでいた。

 ゲームや小説にだって、意味を求める人が多い。社会を変えるだとか、なんとか。そういうのがないから、単純に面白いと思われるように創られているから、もともとが無意味なものだから面白いというのに。無意味なものを、無意味なままに楽しめているから、こんなにも愛おしいというに。お前らが意味を求めるせいで興ざめだよ、と思ってしまう。もともと、社会なんてものにも意味はなく、人類にも意味はないのに。

 

 ああ、そうだな。結局、全ては虚無なのだ。だから、それを認めなければ。認めていない人たちとは、どうやったって会話が成立する気がしない。意味がないものを、意味がないままに、そのままに楽しまなくては。そうでなければ、事実ではない。正しくない。正しくないことなら、なんだって言える。それでなければいけないというものがないなら、その執着がないなら、生きていなくてもいい。僕は生きていたい。だから、全てのものに意味を認めない。無意味なままに、無意味さに嘆き、無意味さを笑うだろう。そうでなければ、この峻厳たる物理法則下で、盲目にならないままに、正常な精神を保つことなんてできない。