壁打ちの延長上

 自分が書いた文章を読み返すとどうにも嫌になってくる。なんだ、この駄文は。まるで他人から読まれることを考えていないような、面白みのない文。ただ、自分が考えたものを、そのまま垂れ流している。起承転結もなければ、工夫もない。そこに文字があるということ以外、何もないに等しい。

 思うに、これは僕の脳内の先にあるものだ。常々、僕は自分自身に問いかけるようにして、思考を進めていく。それが少し漏れ出したようなもの。だから、こんなに独りよがりなのだ。まるで、他者を自身の鏡としてしか使わないような傲慢さがあふれ出たような。あるいは、自己の肯定感が低すぎ、卑屈になっているのか。誰も自分を見ていないというような。だから、どこまでも自身に対してだけ、文章を書き続けているのか。

 ゆえに、僕は本当に羨ましいんだ。ブログの文章だとしても、それがエッセーのように成立していて、読んでいて面白い人々がいるでしょう。彼らはさも、それが当たり前かのようにやっているけれど、間違いなく才能のある人々だと思うよ。僕のように情報量皆無で感情が一ミリも動かない文字列ではない。ただ、羨ましい。そういう回路を僕はもう身につけることができないだろうから。

 どうすればいいんだろうね。幼少期に特別な出来事でも経験していれば良かったのか。本に囲まれた人生を送れば良かったのか。ゲームや本を心から愛せれば良かったのか。名作を観て、心が揺さぶられる人間であれば良かったのか。僕が僕である以上、成立しそうにもない仮説ばかりだ。

 出来る限り続ける、習慣にする、それが力になるという人々がいる。僕は別に才能至上主義者でもなければ、努力軽視主義者でもないけれど、続ければいいのだという主張は間違っていると思うよ。目的がなければ、上達する気がなければ、ただ続けていても意味はない。それは努力と呼ばず、惰性と呼ぶのだから。僕の習慣は、全て惰性だ。この肺が息を求めることでさえも。