面白みのある過去がない

 皆の過去話を訊くと、妙に焦ってしまう。僕の周りだけなのだろうか? なぜか、幼少期の頃から個性的なエピソードを持っている人間が多い。家族構成が特別であったり、貧富の波が激しかったり、通っていた学校が特殊であったり。僕のことは訊くまでもないでしょう。普通の平々凡々な幼少期だ。

 本当に普通の両親の元に生まれ、普通に小学校に通い、普通に中学へ進み、普通に高校に受かり、普通に大学生になり、普通に就職した。え、本当に? それは結構長い時間なんじゃないか? 本当に何もなかったの? 本当に何も無かった。

 妻に、僕の母親は『友達の母親』と言ってイメージするそのものだと言われたことがある。ああ、その通り。僕にとっても、彼女はかなり理想的な母親であり、そこからの逸脱が幾分かある辺りがむしろ、理想的ですらあるぐらいで文句がない。父親にはそれを補うかのように欠点があるが、それは人間として愛すべき要素となっていて、悪徳ではない。だから、本当に普通な人々なんだ。だから、僕の遺伝子も凡庸であり、人生もまた同じ。

 それに不満があるわけではない。特別を望んでいるのではない。ただ、普通は退屈なんだ。なんで普通が普通なのかと言えば、ありふれているから。毎日槍が降る世界では、槍が降るのが普通。成人する前に飢えて死ぬ子が大多数を占めるのなら、餓死が普通。この現代日本では僕のような人間はマジョリティなので普通。なんてつまらないのだろうか。普通であるというのは、情報量がないということなんだよ。すでにごまんと処理されてきた情報の列が同じように並んでいるだけ。コピーのコピーのコピー。僕がそれに飽きた時点で、そうでなくなれば良かったのだけれど、残念ながらそこまでの飛び抜けたものがない。足掻いたところで、それもまた、普通の人々の足掻きだ。そうすること自体が、僕たちが普通であることを証明してしまっている。

 何かが必要なのだと思ってしまっている。それは覚悟だったり、蛮勇だったり、才能だったり、機会だったり、使命感だったり、狂信だったり。そのどれかがあれば、なんてことを考えてしまう辺りが、僕がまだここにいる理由の最たるものなのだろう。