人生の理屈付け

 どうにもきっちりとした理屈を立てることが出来ていない。

 基本的に、理屈で考えれば、今、本当に楽しいということだけが出来ていればいい。今、というところにはあまり問題はない。それは過去に囚われず、未来を憂い無ければいいのだから。しかし、問題は本当に楽しいということで。それは内在性の衝動に従うということなのだが、本当に内在性と呼べる欲求は存在するのだろうか。誰に認められたいという欲求は完全に外在性のもので、外の都合で評価が決まっているのだから、基本的には満たされないものだ。たとえば、ゲームや物語が好きという人がいたとして、しかし、それは結局、幼少期や現在のそれらに対する外部からの評価(例えば役に立たないものだという風評など)を考慮して、好んでいる可能性があるのではないか。本当に内部から生まれたのか、外部から生まれたのか、そういう区別は本質的には出来ないはずで、それを行動の根拠にするのはあまりにも弱い立場のように思える。

 やはり、最終的には全ての行動を停止する以外、無矛盾の理屈を立てられないような気がしてきている。こう言った、人生をどうするべきかという問題に対して、哲学者が答える意見は科学的な側面が不足しすぎているし、科学者はそもそもそう言ったところを問わない人が多い。結局、僕が問題としているところを、正しく答えていると思えた人が存在しない。幸福に生きよ。それは正しい。どうしようもなく正しいのだが、幸福とは何なのか。どのような状態を幸福と捉えるのか。信仰に逃げたり、盲目的にはなりたくない。この主観性と客観性が完全に合致し、論理的に正しいと思える道を導きたい。しかし、それは今のところ、不可能なように思える。僕や僕の妻がそうであるように、完璧主義者は、完璧になれないと思ったものは、全てどうでもいいように思えてしまうことがある。僕は人生に対して、そう思っている。この人間という物理構造体は、そもそもが自由な意志のようなものを仮定して、幸福というものを追及するように出来ていない。厳密に言えば、そういう問いを持ってしまった時点で、彼らはその問いを捨てることが出来なければ、再び幸福にはなれない。僕が大嫌いな蒙昧さに、盲信さに埋もれなければ、論理的に正しい状態には至れない。それは死と何が違うのだろう。だから、わかっているじゃないか。結局、死が全ての根源なのだから、無矛盾な状態に至るための道は二つだ。死に至るか、死を忘れるか。どちらかしか、なりえない。