梵我一如

 ボードゲームがしたい。一人でできることは、ほとんどやってしまった。一人でできることはやりたい時にやる。しかし、そうでないものは他人の都合があるから面倒だ。

 僕はどうにも、何かに対して数をこなしたいという気持ちがあるようで、それでそのジャンルや手法のコア、根幹、共通点ともいえるものを炙り出そうとするらしい。たとえば、ゾンビものを書きたいと思ったら、主要な、そして、微妙にジャンルの異なるゾンビ映画を一通り観るというような。そうして、頭の中に生まれたテンプレートを、自分のものに上手く転用して使うというやり方を好む。これは、大昔から変わらない。自我を持った時から、僕は創作者ではなく、分析家で編集者だった。すでにある実験の手法と結果を並べて、最も適した形を推察するような、そういう人間なのだ。

 だから、ボードゲームでもそれをやりたいのだけれど、本当に時間と人がネックだ。いや、金銭もネックか。とにかく人がいる。僕は重いゲームも初めてのゲームも苦ではないし、フレーバーによる選り好みもしない。色んな名作を、特に自分が興味を持って研究している分野の作品を連続でプレイしたい。けれど、そういう人間の方が珍しいみたいだ。

 いつだってそうだ。当たり前に存在する差異が、いつでも面倒になってしまう。根本的に、普通に考えたら僕と同じになるはずだから自分が正しいという考えが幼少期から抜けていない。僕と同じ結論にならないのは、間違っているからなんて、園児の意見だ。なんか、心底嫌になってくるな。僕に必要なものは、もう一人の自分でしかないという事実がとことん嫌になる。僕と君と世界よりも、もっと矮小化されたものにしか興味がないのか。僕しか重要でないという考えが、理論と実感を伴って、強固なものになってしまった。本当に腐りきっている。