自死の社会的許容の条件
安楽死をどこまで制度化できるだろうかという話を妻としていた。
結局、誰もが死を特別視しすぎているが、軽視すぎているという結論に僕は至った。その辺の人たちの死へのスタンスは、僕が一生理解できないだろうと思っていることの一つだ。
そして、二人の結論としては、生きることへのハードルが下がれば、死ぬことへのハードルを下げてよいというものだった。たとえば、ベーシックインカムとか、個人の意思の尊重とか、医療の高度、多角化とか、そういうことだ。考えてみれば当たり前のことだが。
ただ、実際は、こういう論理的に正しいという議論や結論を導くことなく、自然と制度化されていくことだろう。全体的な流れには逆らえない。論理的な正しさでこの世の中は構成されておらず、むしろ逆に、何らかの要請やパワーバランスによって制定されるものだから。
真に考えられた制度化された自死が許容される社会は、生きることがとても平易な楽園のような社会であるべきだ。そんなところまでは、とてもじゃないが、現代社会は遠すぎて、あと何万年先なんだってぐらいだ。社会の変容速度にはいつも辟易とする。