無選択という選択

 漫画を選びたくないという話を訊いた。まさにその通りで、選択と言うのは結構なストレスとなり、カロリーを消費するから、人々はそれを求める。わざわざジレンマに苦しみたがる僕みたいな人もいるけれど。生物学的に考えれば、テレビの前でぼーとしているのは効率が良い。選択をしなくてもいいが、情報と言う報酬が得られるからだ。しかし、それを怠惰と呼び、教育によって、考えることの重要さをしみこませるべきだというような人たちがいて、ちょっと洗脳され過ぎていて、逆に自分で考えていないのではないかと思った。

 そういう人たちにとって、選ぶこと、考えること、学ぶこと、つまり、頭を使うことが美徳となってはいないだろうか。それは社会にとって、そうするのが都合よいだけであって、個人のことを慮っての価値観ではない。例えば、多くの宗教が勤労を美徳としているだろう。勤労を美徳とする社会は、上手く回っていく。そうでない社会を駆逐していく。そして、制度を整備する側としても、そちらの方が都合が良い。だから、残っているというだけだ。その方が善、というわけではない。個人の得よりも集団の得を優先させるものの方が、集団は強くなっていくから進化的に残っているだけだ。極端になると、少なくない個人を犠牲にすることになり、その個人たちが反抗し、別の集団となるので、総体としては弱くなるが。

 だから、僕は思う。その、選択を善しとする考えが、どこからやってきたのか、考えるべきではないか、と。それが痴呆のような何も考えていない人間は怠けているとか、そういう社会から刷り込まれた価値観ならば、捨てるべきだ。あくまで君は君でしかないし、君は君しかいないのだから、君の価値観で生きるべきだ。もし、それが、君自身が何も考えていないのは、つまらないとか、面白くないとか、美しくないとか思っていて、そのこだわりが自分の根幹たる何かだと思うのなら、その考えを大事にすればよい。ただ、この二つを峻厳に分別することはできない。幼少期の教育は洗脳にも近い威力で、先天的な要素を上書きしてしまう。どこまでが社会の影響で、どこまでが自身の性質によるものかを分けようとするのはナンセンスだ。最終的には自身が納得できる線引きを個々に探すことになるのだろう。

 どこに寄るべきかを考えるのが良いのだろう。論理的に考えれば、人は今すぐ死ぬのが最効率だろう。生物学的に考えれば、思考すらも放棄して、ただ生きることに全力を注ぐべきだ。社会学的に考えれば、人類社会への貢献度を問われることになるだろう。死にたくないが理性を重んじ、社会などどうでもよいと思っている人間がどう生きるべきなのかは、僕もまだわかっていない。