プロトコルに関して

 人生の視点というか、人生をどう捉えているのかという主義主張は、実際のところ、どのような知識や経験を持っているかによるところが大きいと思う。もちろん、遺伝的な形質による思考傾向はあるのだろうが、それ以上に、どのような情報を持っているかで合理的に演繹されるのだ。そのデータセットがなぜか共有化できないから、人々の考えが分断されていく。

 このデータセットによって生み出される人生の通奏低音プロトコルと僕は呼んでいる。これが離れすぎているとコミュニケーションのコストがあまりにも大きくなりすぎる。Aという言葉に関して、考えることが違い過ぎて、会話を成立させることがどんどん難しくなってしまうのだ。

 逆にこれが近しい人間とは、多くを語らずともわかりあうことができる。なにも言わずとも、同じ事象に対して、同じような感想を抱き、同じような考えを持つ。だから、Aという一単語で多くのことが通じる。僕はこういう人たちとしか話したくないと思う。音としては聞き取れるけれど、言葉として聞き取れなかったり、言葉としては聞き取れるのだけれど、意味がすぐに把握できなかったり、と僕の脳の言語処理は非常に弱い。だから、そもそも、会話というものに大きなコストがある。これでプロトコルまで大きく違うと、単なる世間話ですら、大きくスタミナが削られてしまう。だから、黙る。プロトコルが近い人間とは、短い時間でいろいろな会話が出来るから楽しく、積極的にしゃべってしまうのだけれど。

 このプロトコルで集団を分ければいいと思うんだよな。お互いに嫌でしょ、話の通用しない奴なんて。この地域には、基本的にこんな思想を持っている人間を集めていますみたいなさ。気の合う奴同士のシェアハウスの拡張概念みたいなものだ。こういった部分を尊重することが主流にならないのは、世間の人たちはあまり考え方の違いというものに重きを置いていないのかな。僕は考えの合わない人間と一緒にいるのは、それだけで嫌になってしまうのだけれど。まあ、そんな人間は社会にいられないからなんでしょうが。いられないんだよなぁ……