プロトコル

 最近、ツイートを勘違いされることが増えたな、と思う。もちろん、前後の文脈まで読んでくれというつもりはなくて、字面だけで勘違いさせてしまうことはあるし、それはしょうがない。まあ、その呟きだけを見ても、そういう風に思っているとは捉えることはできないだろう、とは思うが。まあ、ただ、それをいちいち取り上げるまでもない。

 なんというか、そういう人は、前から考え方が合わないなーと思っている人であることが多いんだよね。あるいは、ツイート欄を見ていくと、あっ(察し)となるというか。逆に、考え方が合うな、と思っていた人とだと、こちらが明らかに言葉足らずだと思ったことも補ってくれたりする。

 まあ、そういうことなのだろう。僕はデジタル通信の用語を用いて、プロトコルと呼んでいるのだが、人間にはそういう前提とするアルゴリズムが存在するように思える。それが同じならば、物理的な距離や言語すら超えて、コミュニケーションを取ることができる。逆に、それが大きく異なっていると、同じ経験をして、同じ言語で話しているのに、いくら言葉を尽くしても、本当に意味を伝えることができない。

 もっと、コミュニケーションが好きな人ならば、それ自体を楽しさと捉えることができるのだろうか。僕にとって、交流というのは、そのままコストであるから、そのコストが低い人間、つまり、プロトコルがかなり一致している人か、そのコストを超えるだけのメリットのある人、つまり、興味のある対象が同じ人しかしゃべる気がしない。

 その両方に該当する人との交流が増えているのは良いことなのだけれど、その逆も同じように増えていくんだろうな、と思うと、少し憂鬱だね。まあ、無視するだけなのだけれど。言葉を尽くしても伝わらない人にまで、真意を伝えてやる義理はない。