意図

 「ブルーピリオド」の最新巻を今更読んで(本当に好きな作品は本当に好きなので、気負ってなかなか読めない)気付いてしまったのだけれど、僕は、作品に触れることで、同じ視点を持つ人がいる、ということがわかるから好きなのだと思う。主観的な評価、つまり、その作品が好きかどうかは、それによって判別されていると感じる。

 少し前から考えていたことなのだけれど、僕はデータ的なものにあまり興味がなくて、データの向こう側にある意図が好きだ。そして、それに触れることで、創作者の価値観を捉える。そして、それが自分と合っているのか、ということをみているのだろう。意思があり、その世界の捉え方が自分と同じであるかどうかが大事なのだ。

 決して、意識しているわけではなかったのだが、今思うと、幼少期の頃、僕の身の周りに僕と同じ視点を持った人間がいなかった。別に大した希少度ではない。ただ、幼少期の接触範囲だと、マイノリティになってしまう。その程度のレアリティだ。でも、いなかった。家族というだけで、幼馴染というだけで、同級生というだけで、誰かと共にいたが、価値観が一致したことはなかった。プロトコルが違った。鬱陶しかった。弟や友人を同じ価値観にしようとしたが、失敗した。当たり前だ。制御しきれなかった。わかっている人間がいなかった。これは、別に、僕のことをわかってくれない、というわけではない。世界の真理を、本質を、本当に意味のあることを、理解していない。なぜか、人々は雑多なことに気を取られて、本質を叫んでも理解してくれていない。幼くて意味がわからないながらに、そういう感覚が常にあった。

 だから、ある種の作品に触れると、ほっとした。ああ、そうだよ、お前はわかってる。その観方で正しいんだ。世界はそうできている。なぜだか知らないが、僕の周りではそうじゃ無いことになっているが。そういう感想を抱いた。だから、一時期、僕は現実世界における自身の周辺に関して、ひどく無関心だった。本当に興味がなかった。そこに、同じ価値観を持った人間がいなかったからだ。

 そして、たぶん、それは今も引き摺っている。僕にとって、創作に対する最高の誉め言葉の一つは、『こいつはわかっている』だし、多くの人と相対した時に思うのは、『こいつはわかっていない』だし、そういう人がやっていることは『しょうもな』だし、そういう人とは自然と関係を断ち切る。自分の価値観しか認めていない。いや、違うな。他の価値観があることもわかっているし、そうなることも理解はできる。ただ、僕は僕の脳という物理的な檻に囚われているし、そうなっている以上、僕はそちら側の意図を理解できない。だから、プロトコルが同じ人とだけ、その意図だけが把握できれば良い。作品を通じて、僕と同じ考えの人がいるとわかるだけで良い。その考え方が正しい。世界はそうなっている。