議論

 僕は妻と会話することが楽しい。その理由の一つに、彼女との会話ではよく、議論になるということが挙げられる。

 僕も彼女も屁理屈であって、議論をするといつも、いや、という否定から入って反論をする。でも、これは別に相手の意見や人格を否定しているわけではないのだ。いわば、その議題がどれだけ正しく、どれだけ疑義がないのか。そして、どれだけの強度かを試すために、その論理に攻撃をするのだ。お互いにそれがわかっているから、全力で疑ってかかる。どこか前提に穴がないのか、例外がないのかを考え合う。それが、本当に楽しい。その議題は、答えが出なかったり、わかっていないことも多い。それでも、二人とも、今ある知識から発展的に答えを導こうと躍起になる。それが楽しい。

 他の人ではそうもいかないことも多いのだ。

 まず、そもそも、議論を好まない人間が多い。理屈が否定されても、自身が否定されたかのように感じてしまう人や、そもそも、事実であるかどうかに重きを置かない人間が結構いる。そうなると、議論は発展せずに、中途半端な段階で終わりを迎えてしまう。強制的に議論は終了してしまうのだ。

 次に、やはり、考えることを好まない。わからない、で終わってしまう人はあまりに多い。たとえば、どうして、これはこうなのか、という疑問があった時に、調べて答えればいい方で、そんなのどうでもいいとする人間が大多数だ。そして、調べてわからなかった場合、わからなかったで終わらせる人も多い。その先に、どうしてだろうというのを、仮定や推察を用いて、考えたいと思う人間は少ない。だから、本当にありがたいと感じている。

 最後に、全てに結果が先立っている人間が思ったよりも多い。そういう人たちは、僕たちと同じように、いや、という言葉から入るのだが、それは自身とは違う意見を否定するための否定であり、結果の否定だ。僕たちは、仮定や論理に対する否定をする。その条件や推察の過程が正しければ、最終的に答えは正しくなると思っている。いわば、実験の手段が正しくなるように修正している。結果を否定しているわけではないのだ。

 まあ、二人ともシンプルに理屈っぽいだけなのだろうが。でも、そうやって理屈をぶつけ合って、自分の中の疑問や仮説がしっかりとした考えにまとまっていくと、生きているという実感がわく。