虚無の実感に関して

 理論的に人生は虚無という結論に至る人間は、少なくない。なぜならば、簡単な理屈でわかってしまい、他の詳しい説明はその直感を支えるだけのものでしかないからだ。神はおらず、輪廻転生もないが、人は必ず死ぬので、人生は虚無。単純明快だ。

 しかし、その虚無感を本当のものとして感じているかどうかに関しては、人によってばらつきがあるように思える。例えば、妻はこれを知っているのに、それは仕方ないことだと割り切れているタイプの人で、苦しむこともないようだ。一方、僕は虚無感によって、よく眠れなくなることがある。

 この違いは、虚無感を実感するような経験が幼少期にあったかどうかで分けられるように僕は思っている。

 

 僕は比較的4月に近い生まれだったせいか、幼少の頃は何でも出来るようなタイプの人間だったらしい。そのために、両親はこう考えたと、小学生の頃にもらった手紙に書いてある。

 『なにもせずとも、これだけ出来るのであれば、より努力をすれば、もっと出来るようになるはずだ』

 この考えから、僕は結果ではなく、努力の姿勢――しかも、両親がわかる範囲のもの――で評価されるという幼少期を過ごしてきた。その結果として、他の子供たちが褒められているような結果、つまり、徒競走の一位であるとか、テストの満点であるとか、計算の速度の一位であるとか、そういったものでは全く評価されず、成績表の授業への態度という一項目でしかられるような状態に陥っていた。しかし、考えて見ればわかるように、ADHD傾向にある僕が、しかも、他者を見下すことに定評のある僕が、素晴らしい成績表をもらえるなんて、あり得ないことだった。そのため、他者が評価されているのに、僕だけは評価されないなんて状況が長く続いた。

 きっと、という仮定の話でしかない。けれど、僕の根本に巣くっている虚無感というのは、この幼少期の、どんな結果を出しても、何にも得るものはないという経験から強固に確立されてしまったものではないかと思うのだ。これに、現実の、理論的に導き出される虚無という理屈が綺麗に収まってしまって、実感の伴う、より強い虚無感になっているのではないかと最近は考えている。

 まあ、ずっと昔から他者を認めることがあまりなく、しかし、自分が認めた、好いた相手からはとことん裏切られてきた僕なので、怪物に押しつぶされたようなペラペラ人間になってしまうのは仕方のないことのように思える。