バッドエンドの恣意的さに関して

 この間、バッドエンドの作品を読んだ。ブツ斬り感が心地良く、作者が若いこともあって、今後にも期待できると思った。しかし、同時に、どうしても恣意的さを感じしてしまうのが問題だなと思った。

 現実には、現実らしさは求められない。現実は小説より奇なりという言葉があるように、たびたび、確率的にはありえないことが簡単に起こってしまう。それは峻厳たる法則とアトランダムの要素の下で、膨大な試行回数が稼げる現実ゆえの奇跡だ。人間は、それを許容する力を持っている。ゆえにノンフィクションでは、その内容のリアリティは逆に必要とされていない。

 しかし、空想では、現実らしさが求められる。作者の考え一つで全てを自由に出来る創作では、そのあまりにも広い選択肢から選ばれた一つが、どうして、それなのか説明出来るようなものであることを、読者は求めるのだ。そうでなければ、以降の展開すら、作者の気持ち一つでどうにも変えることができることを目の当たりにし、作品に価値がないように感じられてしまうからだ。

 これは非常に難しい問題だと思う。今回のような短編、それもエンディングでなら、こうなるという読者の頭の中にある物語のテンプレートに逆らうことも許されるだろう。しかし、長編になればなるほど、その軛は強くなっていく。長期連載作品のエンディングがよほどのことがない限り、酷評されるのは、その現象と関連していることだろう。しかし、物語のテンプレートに従うだけでは、その作品もまた、情報量がゼロとなり、意味が無くなってしまうのだ。

 結局、今回のように不条理を売りにするのでなければ、伏線をはり、描写に力を入れ、展開に説得力を出すしかないのだろう。それだけが、物語を物語たらしめるものなのだから。