虚無過敏症

 おそらく、人より虚無感をいただきやすい体質なのだと思う。僕は別に虚無主義者ではないのだ。虚無感に過敏だと言うだけで。誰かが意味があると思ってやっていることに巻き込まれ、それが意味を持たないとわかっているだけでイライラしてしまう。その無意味なことに巻き込まれて、時間を浪費していることもそうだが、それ以上に、この意味のなさに誰も気づいていないのだという徒労感、虚無感がひどくなってしまい、何もやる気がなくなってしまう。日常生活に支障をきたしている。皆は良くやっているよ、と思ってしまう。

 なんというか、はじめから無意味であると決まっていることは好きなのだ。心が矛盾しない。映画なんか観ても何の意味もないし、ボードゲームで勝利点がトップでも、何の役にも立たない。しかし、それがいい。それこそが人生だ。人生などと言うものは、生命という現象は、そのものが無意味で無価値なのだから、そういうことに費やしているのが最も生命らしい姿だと、僕は思う。それを、どうせ死んでしまう人々のために、とか、どうせ絶滅してしまう人類のために、とか、どうせ消滅してしまう宇宙のために、とか、本当は脆いものなのに、それに気付かずに大きなものに自分を載せることで不死のように思い込み、何か意味があると思い込んでいる人々が本当に許せないし、やるせない。そういう虚しさが、この社会には蔓延しているように思えて仕方がない。虚業などというが、この人類の営みそのもの全てが虚業なのだ。それに意味があると勘違いして精を出している人々が僕のすぐ隣にいたりするのが社会だから、発狂しそうになる。

 なんで、事実を認めようとしないのだろう。僕は物心ついた時から、それが不思議でしょうがなかった。だから、僕の認識している事実が違うのだと思っていた。しかし、そうではないと知った時から、本当にどうでもよくなってしまった。事実を見ようとしないのなら、この虚しさに向き合おうとしないのなら、もうどうだっていい。勝手にしててくれ。ただし、僕を巻き込まないでくれ。