緑の目

 あまり嫉妬しないなーと思った。自分と他人を峻別する思考のせいかもしれないが。なんというか、嫉妬するというのは、可能だと思っていないといけないと思う。たとえば、鳥が自由に空を飛べることを羨ましがることはあるだろうが、嫉妬することはないだろう。自分が実現の可能性がある/あったのに、誰かが達成している。自分はしていない。だから、嫉妬するのではないだろうか。

 ただ、外見が鳥と僕ほど違わないから錯覚してしまうが、たとえば僕と妻にも同じような、物理的な違いがある。脳の構造が異なれば、できることは異なる。それに嫉妬しても仕方がない。それぞれの物理的な制限がある。文化的なこと、精神的なことは、よくそうではないと思われる。気持ちの問題だと。でも、うつ病を気合で治すことができないように、足が動かなくなった人が自由に歩くことが困難であるように、精神活動にも物理的な制限があるのだ。それは、遺伝のように決まってしまうことや、幼少期の訓練のみに依存する要素もある。僕たち日本人がよほどのことがないと、もうRとLの音の区別がつかないように、取り返しのつかないことは山のようにあるのだ。

 それは劣化と言うわけではない。そういう最適化がなされているから、僕たちはネイティブとしての日本語の発言ができるわけで。何かに特化しただけだ。もう手に入らない何かを求めても仕方がないと僕は思ってしまう。その何かを手に入れた僕は、もう僕とは異なる精神構造をしていて、それは別人だと思うから。

 ただ、嫉妬の行動は、すでに進化的に脳に仕組まれていることでもあるから、事実を理解して嫉妬することができなくなる人もいれば、理解できても嫉妬を止めることのできない人間もいる。絶対的な死を理解しても平然と明日を生きることができる人もいれば、怖くなって眠れぬ夜を過ごす人もいる。そういう、個体差による物理的な断絶が埋まることはない。配られた手札で戦うしかないんだ、僕たちは。そして、それを受け入れる他はない。事実は変わらないのだから。