未来に視線を向けるべきではない

 いろいろな本を読んできて、ようやく、近代的思考を捨てずに生きることができる方法がわかってきた。

 僕がよく言っているように、結局は自分は死に、人類や地球、宇宙すら滅びるのだという現実を変えることはできないし、また、一度でも理解してしまえば、また白痴に戻ることはできない。それはどうしようもないことだし、やりきれない事実だ。

 けれども、それが虚しいと感じられるのは、ただ、その無限に続いていく時間を見ているからだ。その無限遠の未来からの光景はただの空虚であって、人生に虚無感を与えるものでしかない。しかし、確かに人間は現在を生き、それを感じ取ることのできる総体を持つ。それもまた、否定することはできない。だから、この、今、感じている、今、存在しているものをただ、大事にする。それだけが、人間の取り得る虚無感への抵抗手段たり得る。

 少しでも、未来へと視線を向けてはいけないのだ。それは無限に未来へと進む思考となり、最終的には自身の死、全ての死にしか辿り着かない。ただ、今を感じ、生きる。それしかないのだ。

 資本主義は本来、それを許さない。万物の代替品である金銭、そして、それに還元できる時間がある以上、全ては量でしか表すことのできない、比較可能なものへと成り下がってしまう。同じ3時間、同じ1000円。そういう括りでしか語れなくなる以上、その先に待っているのは無限の欲求であり、それは無限の時間であるから、虚無へと繋がってしまうのだ。

 ゆえに求めるべきは質。ただ、その主観的な質にだけ、重きを置けばいい。幸福に生きよ! という至言はあくまでも正しい。

 常に、現在の質を求めるべきだ。将来に対する懸念は一切いらないし、必要もない。どんなに備えていようが、どんなに心配してようが、老人のプリウスミサイルに巻き込まれて死ぬのだから。そうでなくとも、結局は死ぬ。死ぬ時に何を思うかなど、気にする必要があるのだろうか。ただ、今という質を求めるしかない。今、この瞬間の量で代替不可能な実感を増やせ。それが人生の目的だ。