理想的な一日について(2)
以前、理想的な一日を思い描いた時、何も思いつかなかった。この時は、論理的に正しいというような、演繹的な方法で理想の一日を想像しようとしていた。しかし、この時から、常々、今日という日はどこまで理想的かを考えるようになった。
平日は必ず、理想的な状態からかけ離れている。本当にかけ離れている。まず、自ら決めた時間ではなく、始業時間と通勤時間から逆算された時間に起きた時点でアウトだ。「ダークソウル」も驚きの即死である。
休日も多くは理想的とは言えない。何かの用事で一日がつぶれてしまった時や、グダグダと過ごしてしまった時などは本当に嫌な気持ちになる。とはいえ、それも翌日や翌々日には平日があり、休日が週に2日しかないせいかもしれないが。
しかし、ここ一年ぐらいでも、満ち足りた気持ちになり、死や虚無の囁きに負けることがない日もあった。
例えば、旅行先での一日。その日は移動日であったが、それゆえに余裕はあった。そのため、宿泊先から少し離れたおもちゃ屋まで歩いていくことにした。その時間は、本当に楽しかった。見慣れない光景や、後の予定について話したり、変わった景色にいろいろと考察してみたり、古い町並みを抜け、途中であった公園を突っ切るように歩き、天気が良い中、木々が茂った道を歩いてみたり。素晴らしい一日だった。
例えば、朝起きてから昼までに今やっているゲームを進め、昼から夕食までは妻とボードゲームをしたり、映画を観たりし、夜は自分のPCに向かってアイデアをまとめたり、小説を書いたりして終えた一日は、特別なことがないのに、充実感にあふれていた。
そうだ。本当は僕は、そういう一日が送りたい。そういう時間を少しでも多くしたい。どうせ、僕たちは死ぬんだ。僕たちの乗った飛行機はゆっくりと墜落していこうとする。そんな時に、その事実を知りながら、それでも、恐怖に震えることなく、満ち足りた気持ちになれるなら、他に何を望むというのだろう。主因は死ぬことだが、それによってもたらされる問題の大きなところは、あらゆることが虚無に感じられたり、常に恐怖を感じたりすることだろう。それを緩和することさえできれば。あとは、死んでしまうという問題が残るだけだ。そういう一日を送りたい。