理不尽な事件
理不尽な事件や事故が起こると面白くて笑ってしまうという悪癖がある。この間のプリウスミサイルなんかも目にするたび笑っていたのだけれど、妻からそうしないと正気を保っていられない人みたいで見てられないから止めてくれと言われた。確かに、その通りなのだ。
僕がこういう理不尽な出来事で笑ってしまう理由は二つある。
一つは、そういうことになる可能性を考えずに生きてきた人々の愚かさに対する嘲笑だ。彼らは口々にこうなると思わなかったといい、訪れるはずの未来のために我慢してきた過去を思い出し、すでに物体になってしまった人々のために泣き、存在しない天国たる概念を支持しなければ生きていけないほどもろくなってしまう。その死こそ、人生の命題たりえるというのに、意識していないからそうなる。だから、いい会社に入って、奥さんをもらい、子供を育てて、それが無に帰した時、ようやく、真実を悟るのだ。しかし、すぐに自ら蒙昧な嘆きへと戻ってしまう。その救われなさを常に僕は嘲笑っている。
一つは、その悲劇が自分に襲いかかるかもしれなく、また、そんな人生を歩むしかない人間の残虐劇を、シュールな喜劇として笑うしかないという、諦観の笑いだ。それを深刻に捕らえようが、事実が変わってくれるわけではない。ならば、自分はそれを喜劇に分類しよう。そんなつもりの笑いだ。
思うに、人生とはこんなものである。理不尽だし、何らかの意味があるわけでもなく、唐突に僕たちという現象は途絶える。だから、何事も冷笑的に捕らえ、頽廃的な人生を選ぶことだけが、理性的と言える人生だろう。それが事実なのだから。きっと、そういう人だらけの人類は、すぐに滅びてしまうことだろうが、現実をしっかりと見つめている人々なのだから、ストレスのない、幸せな滅びを享受できるに違いない。僕はそんな社会で生きていたかった。死から視線を逸らし、虚構を信望する集団でいて欲しくなかった。論理的に考えれば、そうはなり得ないのだから。しかし、現実は非情で、理不尽で、非理性的だ。だから、また、僕はその事実を嗤う。