縛りプレイに関して

 みんな、人生において、前提としていることが多すぎると思う。守っているものが多いとでも言うのか。実際、大したことのないものを大仰に捉えた挙げ句に、自ら大事なものを次々と増やしているように思える。みんな、自分で縛りを入れたいのかなと、ふと思った。

 人生というのは、本来、あまりにも自由度が高いものだ。明日、朝起きなくてもいいし、車を暴走させてもいいし、急にアフリカに行ってもいい。罪を犯せば、大なり小なり牢獄行きだろうが、そうでない範囲で出来ることだって、あまりにも多い。そして、それは実際、一般的に心配されるほど大事になることは少ないと思う。意外と何とかなり、リカバーは可能で。例え、修正できなかったとしても、それがなにになるのだろうか。どうせ、僕たちは死に、社会は消え、人類は滅び、宇宙は凍る。

 だから、何でも出来る。でも、何でも出来ると言われても、なにをしていいのか、困惑するのが関の山だ。一人の想像力には限界があり、欲望にも限界がある。その常識の壁は意図してもなかなか破れはしない。ましてや、行動力となれば。

 ならば、自ら縛りをかけた方が、日々を平穏に生きていくことが出来る。どうして、明日、学校に、会社に行くのか。どうして、朝起きて、電車や車に乗り込み、好きでもない場所に好きでもないことをしに行くのか。その理由を簡単に用意できる。それは日々の金銭のためだし、家族のためだし、世間体のためだ。そうした方が楽だ。諦めが付く。

 ゆえに、人々は自縄自縛に陥っているのではないかと思うのだ。科学技術や権利が発達した一方で、各々の精神はその自由度に追いついていないということである。僕もそんな人間の一人だけれど、これは勿体ないことだと思う。もし、この人生というクソゲーに唯一の利点を見つけるとするのであれば、それは自由度だと思うから。

 幸せでいたいのなら、自分の行動ぐらい、自分で縛るのをやめるべきなのだろう。