意志に関して

 結局のところ、人間の意志というものは、あまり存在しないと言えるようだと現代科学では明らかになっている。ならば、我々が悩み、選択することの意味はあるのだろうか?

 あるいは、意志というものを所謂自由意志と定義し、本当に存在するとしよう。しかし、それは脳の構造に支配されている。油や砂糖が好きだったり、子供が好きだったり、性行為が好きだったり。それは単純に、ここまで進化していくために必要だったことであり、すでに遺伝子に組み込まれていて、それが脳のシナプスの回路として、発現している。その上に我々の意志というものが乗っかっている以上、それに逆らうことは出来ない。意志だけで、死ぬまで息を止めたり、心臓を止めたりできるだろうか。出来やしないのだ。脳幹のようにコアな部分の脳機能は、外側の大脳新皮質からの命令で止めることはできない。そういう、物理的な限界がある。なら、意志はかなり制限されてしまうのではないか。こうしたい、ああしたいと悩むこと自体に意味はなく、ただなるようになっていると言えるのではないか。

 ならば、僕たちはどうすればいいのか。そう悩んでいることすらも、遺伝子や幼少期の環境によって規定された脳の機能に従っているだけであって。悩まない人は元々悩めないと言えるし、悩む人はどうやっても悩むと言える。出来ることは、薬で僕という現象に干渉することぐらいだ。

 つくづく嫌になってしまう。どうせ死ぬのだ、ということに加えて、どうせ悩むのだ、と言えるのだから。どうせこうなったのだ、と人生が終わる頃に思うだろうし、それが正しいのだから。なるようにしかならないのだから、そこに呵責を感じること自体が間違っている。重力が存在することに対して怒っても仕方がないだろう。地面に叩き付けたガラスのコップが割れたことに対して悲しむことはない。

 僕たちに出来ることはない。塔から落ち、地面にぶつかるまでの間、発射された角度や速度に従って、無様に動いているだけだ。真面目にやっている人たちは、馬鹿馬鹿しくならないのかな。