人生に対して考えたことに関して

 正直、人生に関してこの世の中に存在する文章の99%が全く役に立たなくて、時代性が反映されていないか、自分というものが電卓に表示された計算結果が消されるように死ぬということが理解出来ていないかであって、ほとんど意味を成さない。そのため、ちゃんと考えておく必要がある。事実を並べ、納得できる理屈を組み上げるために。

 

 人は死ぬ。完膚無きまでに意識は破壊され、その時点で何もなくなる。なので、本来は人生をどうすべきかという議論自体がナンセンスで、実際のところ、どうでもいいというのが正しい。確かに正しいのだが、一方で、全ての器官を失い、なにも出来ないのに、全身が焼かれるような苦痛を感じ続けながら60年を生きるか、ホテルのプールの上でアヒルのボートに乗って寝そべりながら、晴天に対して大声を出して笑うような幸福感を味わいながら60年を生きるか、と問われればどんな悲観主義者でも後者を選ぶだろう。僕だってそうだ。つまり、理論的に全ての現象に意味はなく、自身も地球も世界も死ぬという事実は動かないが、主観的にどのような人生を歩むかには差違がある。

 どのような主観的な人生を歩むべきなのかを考えると、そこに統一的な見解はないというのが正しい。なぜならば、個々の人間はそれぞれ遺伝子が異なり、発現形も違えば、幼少期の経験も異なるからだ。一般的に、自分は変えられるが、世界は変えられないなどと言うが、それは事実の一端しか表していない。自分には変えられない部分がある。遺伝的な才能というものは存在するし、肉体的にせよ、精神的にせよ、(両者とも物理的な状態という点は同じであることに留意)変わらないものは存在する。腕を切られてしまえば、再び生えてくることはないように、狼少女が言葉を流暢に使うことができなくなるように、物理的な現象には、不可逆性のものが存在する。人間の精神にも例外はないのだ。一方で、日本にベーシックインカムを導入させるといった意味で世界は変えられないが、住む場所や仕事を変えたり、付き合う人を変えることはできる。世界は変えられる部分もあるのだ。

 

 なら、どうすればいいのか。

 

 探していくしかないのだろう。常に自分にとって最適な状態を探していき、それに近づくしかない。しかし、統一されているとは限らない。左脳と右脳でなりたい職業は違うし、十年前の自分と今の自分で価値観は違うのだから、その時その時で変化してしまう。あればあるほど良いというものはない。地位や金、暇が多すぎるせいで不幸になってしまった人間は枚挙にいとまがないし、その逆だってしかりだ。適量があるが、それは個々や時々によって異なる。また、未来の自分にとって、なにかベストな状態を探すのは不可能だ。なぜなら、状況は変わってしまう。隕石が墜ちてくるかもしれないし、金融危機や災害、宝くじの当選など、大きく変わってしまうものもあれば、価値観、嗜好の変化や病気の有無の違いだってあるだろう。未来のある時点で、どういう状況が幸せなのかは、考えても仕方のないことなのだ。わかるのは、今の状況だけ、今の気持ちだけだ。それすらも感じ取れない時があるぐらいである。未来の状況を未来の自分に全てを託すのは、完全に正しい。理論上、完全無欠と言ってもいい。なぜなら、それは物理現象として今の自分自身ではないのだから、本人に任せるほかない。それが主観的な快不快なのだから。

 変化自体がストレスになることもあるだろう。幸福を追い求めることで、不幸になることもあるだろう。というか、厳密に言えば、幸福という概念よりは、不快をなるべく減らす、面白さ・楽しさをなるべく増やすというべきなのかもしれない。社会に認められることを望んでいながら、引きこもってゲームをやっているような状態は本人にとって幸せとは思えない。だから、本当の意味でなにを望んでいるのかを考える必要がある。他者からの視点や常識の圧力に屈して、外から見て理想の自分を築き上げるなんて虚無なことをする必要はない。ただ、自分の脳が最もプラスの感情を抱き、最もマイナスの感情を少なくできる状態をなるべく長く維持する。それが人生の結論とも言える生き方だ。今のところ、僕の知識を最大限に活用して、理論的に考えられる結論は、こういうものになっている。

 つまり、結論は一つで。僕がああだこうだ言わなくたって、20世紀最大の賢人がこう言っているではないか。

 

『幸福に生きよ、ということより以上は語りえないと思われる』